見出し画像

「怒り」は出し入れ可能である?!

今日は子どもに対して大声を出してしまう自分に対して、自戒を込めて、書きます。(岸見一郎・古賀史健著の「嫌われる勇気」という本からヒントを得て書いています。)

画像1


・・・・・

ついカッとなって、ひどいことを言ったり、やってしまった経験はありませんか?

わたしは、あります。

昨日の朝、着替えを嫌がって遊び続ける息子を無理やりおもちゃからひっぺがして「もう保育園行く時間!!着替えるの!!」ともの凄い大声で言って、子どもを泣かせて、着替えさせました。(サイテーですね)

なぜ、わたしは大声を出したのか?

理由は、

①子どもにいうことを聞かせるために、1番手っ取り早い方法だから。

②大声を出してイライラをスッキリさせたかったから。

この2つだったと思います。

ただ、大声で威圧して言う通りにさせても、子ども自身はなぜそうするのか理由がわからず終い。加えて、恐怖で言うことをきかせる最大のデメリットは、子どももちょっとの脅しでは言うことをきかなくなるため、段々とこちらの行動がエスカレートしてしまうことです。

また当然ですが、自分のイライラを発散させるために子どもを使うのは、やはりサイテーだと思う。だったら物に当たる方がよっぽどマシ。

かっとなってつい・・とか言ってしまいたくなりますが、「人は感情に抗えない存在」ではありません。

その証拠に、わたしは他の人の目がある時には、そこまでひどい怒り方をしません。

怒っている最中に宅急便が届いたら、怒りを引っ込めて対応することができます。

「怒り」は、紛れもなく出し入れ可能なのです。


それでは、大声を出す人と出さない人の決定的な違いは何でしょうか?

怒りの鎮め方を知っていること?

コミュニケーションが上手なこと?

自分の人生に満足していること?

全部それっぽいけど、答えはノーです。

いくら、怒りの鎮め方を知っていても、コミュニケーション力に長けていても、自分の人生に満足していても、怒る人は怒る。

怒鳴る人とそうでない人の決定的な違い、

それは大声を出すことを自分に許可しているか/していないかです。

体罰も同じ。子どもがいうことをきかないときに手をあげるひとは、手をあげることを自分に許可しているのです。

怒りでついやってしまったと思えば、自分を正当化できるから、そうやって自分で自分に言い聞かせているかもしれない。だけど、そもそも本当は「叩いていい・殴っていい」と思っているのです。

でも、本当にそれでいいのでしょうか??

相手が自分の思い通りにできなかったら何してもいい、そんなわけない。

たとえ自分の子どもだとしても、大声で威圧したり、手を上げることは間違っていると思う。

繰り返しますが、間違っていることをしてしまうのは、それをしてもOKだと自分に許可を出しているから。

でもそれは、甘えです。

子どもは、どんなひどい親でもやっぱり頼りにしている。特別に思っている。ひどいことしても許してくれる。というか、許さざるを得ないのかもしれない。1人じゃ生きていけないから。

そんな健気な子どもに甘えるのは、やめよう。

綺麗事や理想論と言われてしまいそうだし、現状を考えたら自分でも理想論だと思うけど、でもどうせなら理想を目指そう。

と、1人で思ってもなかなかできないので、ここに宣言します。

怒りにもっとちゃんと向き合って、今日より明日の自分は少しでも成長していけるように。

サポートは「NPO法人フローレンス」に寄付させていただきます(貧困家庭に食事を届ける活動を応援したい)!