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世界一の男【ショートショート】

N氏は、その名を知る者が誰もが羨む、完璧な男だった。小さい頃時代から常にクラスの中心に立ち、中高ではスポーツ万能で、数々の大会で優勝。女性からもモテモテで、これまでの人生で断られたことなど一度もなかった。バスケットボールでの華麗なシュート、100メートル走での圧倒的なスピード、どんなスポーツでも彼は一流だった。

そんなN氏が大学生となり、順風満帆なキャンパスライフを歩んでいると、一人の女性に出会った。その日から彼女を前に、胸の高鳴りを抑えられずにいた。

彼女、サキは、N氏が今まで出会った誰とも違う存在だった。クールで知的で、そして何よりもN氏に全く興味を示さない。どんな女性でもN氏を振り向かせることができた彼にとって、サキの存在は初めての挑戦だった。

「ねえ、サキ。僕と付き合ってくれないか?」

その言葉を口に出すのも、N氏にとっては自然な流れだった。これまでどんな相手でも、この一言で手に入らないことはなかった。

しかし、サキはただ一言、笑みを浮かべて答えた。

「あなたが世界一になったら、考えてあげてもいいわ。」

その瞬間、N氏は自分のプライドをくすぐられた。自分が世界一になることなんて簡単だ、そう思っていた。サキの心を手に入れるためには、それが必要ならば、何でもやってみせると決意した。

N氏の挑戦は翌日から始まった。彼はスポーツ万能で、どんな競技でも一流だった。だからこそ、世界一の記録に挑戦することも容易いと考えていた。だが、現実はそう甘くはなかった。

いくら一流の素質をもっていたからといって、スポーツ選手やオリンピックの記録を抜くのは流石に難しかった。そこでN氏は少し変わった記録を探し出し、挑むことにした。

最初に挑んだのは、「100メートル後ろ向きで走る最速記録」。しかし、後ろ向きということが思った以上に難しく、開始早々バランスを崩して転倒。膝をすりむき、無念の敗退。

「まぁ、次があるさ。」

気を取り直し、次に挑んだのは「バスケットボールを同時に最も多くドリブルする記録」。バスケはN氏の得意競技だったが、いざボールを7つ同時に操ろうとすると、すべてのボールが四方八方に散らばり、大失敗。

「これも違うのか…」

その後N氏はあらゆるものに挑戦した。30秒で最も多く風船を割る記録だったり、トイレットペーパーをもっとも早く巻き切るという、笑われるような世界一にも挑戦をした。

しかしそれでも世界一は取れなかった。N氏は頭を抱えた。どれほどの運動神経を持っていようと、世界一への挑戦は別次元の難しさだった。

それでもN氏は諦めなかった。彼女、サキが放った「世界一」という条件が、彼の頭の中で響き続けていた。彼女の前で、堂々と「世界一だ」と胸を張るために、N氏は日々新たな挑戦を続けた。

だが、どれも失敗続きだった。チームで行うべきチャレンジや、極限の集中力を要する挑戦、繊細さが必要な世界記録の数々に、N氏は次第に心身共に追い詰められていった。

そして、ある日、彼は世界一の記録を見返している時に気づいた。「最も多く世界一の挑戦に失敗した者」という記録が存在しないことを。もしこれを達成すれば、自分も「世界一」として認定されるかもしれない。そう考えた彼は、世界一の認定機関に連絡し、その記録を提案した。

――

数週間後、ついにその日が来た。N氏は公式に「世界一に最も多く挑戦した男」として認定されたのだ。彼は手にした証明書を持って、急いでサキの家へ向かった。

「サキ、聞いてくれ!僕はついに世界一になったんだ!」

彼女はドアを開け、N氏を見つめた。その顔に驚きはなく、ただ少し困惑したような表情が浮かんでいた。

「…そう。おめでとう。でもね、もう遅かったの。」

「遅かった?どういうことだい?」

「実は、もう彼氏ができたの。」

その言葉は、N氏の胸に重く響いた。

「彼氏?誰だよ?」

N氏は衝撃で頭が混乱した。自分がこれほどまでに必死に世界一を目指してきたのに、その間に誰か別の男が現れたというのか?

サキは気まずそうにリビングの方を振り返り、声をかけた。

「田中さん、来て。」

そして、リビングから現れたのは、地味で冴えない男だった。古びたセーターに、ぼさぼさの髪、彼の存在感は限りなく薄い。N氏は思わず目を細めた。

「こんにちは…」

田中と呼ばれた男は控えめに挨拶したが、その声は小さく、自信に欠けていた。

「…で、君は何の世界一なんだ?」

N氏は焦りと苛立ちを押し隠しながら尋ねた。彼は自分がこの男に負ける理由が見当たらなかった。

サキは静かに微笑んで答えた。

「田中さんは、何の世界一でもないわ。ただ…私のことを世界で一番大事にしてくれるの。」

その瞬間、N氏はすべてを悟った。彼女が求めていたのは、記録や称号ではなく、ただ一人の人間として自分を大切にしてくれる存在だったのだ。世界一の運動神経も、華やかな生活も、彼女にとっては価値がなかった。

N氏は黙って立ち尽くし、手にしていた世界一の証明書をそっとポケットにしまい込んだ。自分の世界一が、彼女にとって何の意味も持たなかったことを痛感したのだった。

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