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書くこと【ショートショート小説】

N氏は小学校の教師だった。教室には笑顔と好奇心でいっぱいの子供たちが集まり、彼はその姿を見るたびに心が温まる思いだった。しかし、今日の朝はいつもと違っていた。教育指導要領が改訂され、これからは文字を「書く」ことを教えなくてよいことになったのだ。

N氏は新しい指導要領を読みながら、本当にこれで良いのかと疑問を抱いた。しかし、指導要領は国家の方針であり、彼はそれに従わざるを得なかった。具体内容としては、文字を書くということを削減する代わりに、デジタルツールの活用を推進し、子供たちに最新の技術を教えることが求められていた。

初日の授業が始まると、N氏は新しい方法で授業を進めた。彼は電子黒板を使い、子供たちにタブレットを配り、デジタル教材を使って授業を行った。子供たちはすぐに適応し、デジタルツールを使いこなす姿にN氏は驚いた。

「先生、見て!」と、ひとりの生徒がタブレットを見せながら言った。彼は自分の名前を音声入力し、タブレットの画面に綺麗な文字で表示された自分の名前を誇らしげに見せた。もちろん誤字もなく、昨年までのひらがなと漢字の混じった読みづらい名前ではなく、綺麗な文字である。N氏は少し戸惑いながらも「そうだね、よくできてるね」と生徒をほめた。

N氏は次第に新しい授業スタイルに慣れていった。子供たちはどんどん新しい技術を吸収し、授業はスムーズに進んだ。彼らはインターネットを駆使して情報を調べ、作文作り、クラスの仲間と共有した。以前は正直、低学年はまだまだ文字が汚く、読むのに苦労したがその苦労は今はない。

中盤に差し掛かる頃、N氏は自分の懸念が杞憂であったことに気づいた。デジタルツールの導入により、子供たちは以前よりも学びに対する興味を持ち、主体的に学習に取り組んでいた。特に困ることもなく、彼は毎日を充実感とともに過ごした。

ある日の夕方、N氏は一日の授業を終えて家に帰った。疲れを感じながらも、彼は達成感に包まれていた。夕食をとり、リビングのソファに座りながら、一冊の古い日記を見つけた。彼は微笑みながら、それを手に取った。

「そういえば、久しぶりに日記を書こうかな」と、彼は思った。しかし、次の瞬間、彼は驚いた。日記を書くためのペンがどこにあるのか、全く思い出せなかったのだ。

N氏は家中を探し回ったが、ペンは見つからなかった。ふと気づいたが、もう何ヶ月も、いや何年もペンを使っていなかった。それどころか、文字を「書く」こと自体が彼の生活から消えつつあった。最後に使ったのは市役所だったと思うが、それもつい最近電子サインに変わったというニュースを聞いたところだ。

しかし、ふと立ち止まり、N氏は笑った。思い返せば、彼自身も、そして子供たちも、文字を「書く」ことをずいぶん前から必要としていなかったのだ。すべてはデジタルで解決し、誰も困っていなかった。実際、子供たちは以前よりも楽しんで学んでいた。それにもかかわらず苦労して子供たちに文字の書き方を教えていたのだ。

「これでいいんだ」と、N氏は心の中で確信した。彼はペンを探すのをやめ、ソファに戻って座った。そして、スマートフォンを取り出し、日記アプリを開いて今日の出来事を入力し始めた。

N氏は思った。社会は変わり続けるものであり、教育もまた変わる必要がある。文字を「書く」ことは過去のものとなり、新しい時代が訪れたのだ。それはそれで、悪くない。

彼はスマートフォンに向かって微笑みながら、日記を書き続けた。これからの未来に対する期待とともに、彼の心は軽やかだった。

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