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「ふらり。」 #9 近所の寿司屋

イマジナリーフレンドが100人いる主人公、
学文(まなふみ)のふらり、ふらり小説。


学文は連れと近所の寿司屋に行く事にした。阿佐ヶ谷にも沢山の街の寿司屋がある。逆に回転寿司はあまり見かけなくなった。

たまに回転寿司と所謂普通の寿司屋、回らない寿司屋が同じ土俵で比べられたり、どちらが優れているかなどと論争じみたものがあるがあれほどナンセンスな物はないと学文は思っている。

学文にとってそれらは全くの別ジャンルである。回転寿司には回転寿司の気軽さや速さ、回転寿司独自のメニューがある。値段も手頃だ。

街の寿司屋も同じ様に値段が比較的手頃なところが多いが、回転寿司屋よりは落ち着いて食べられる事が多い。回転寿司よりはメニューの数は少ない事が多いが素材にひと手間かけてある事も多く街の寿司屋ならではの味がある。また店の格によってはちょっとしたお客さんも連れてきたり、会食をしたりするのも便利である。

都会の高級寿司屋となると学文にとってはほぼ縁がない世界であるが、それも必要な店である。寿司屋に限らずだが高級店ともなればそもそも利用する人が限られてくるので店側も客の質や態度をコントロールしやすい。客側もある程度安心して利用できるし色々と融通がきく事も多い。大切な客を饗す時、仕事先と大事な話や接待をする場合の情報の気密性にも店選びは関与してくる。飲食店に払う金は口に入る材料だけに払っているのではなく、店の雰囲気や立地、情報の気密性…そういった居心地の良さや安全性、目的にあった利用のし易さに金を払うのである。

北海道の海の幸は本当に素晴らしいと思う。そして東京と北海道の寿司屋もよく比べられる事がある。これは学文の個人的な見解ではるがこれもあまり比べる事に意味は無い…と思う。

北海道に行って人気回転寿司店に並んで北海道の豊富な海の幸や寿司を北海道の価格で食べる。もうこれはレジャーである。楽しくない訳がないし、美味しくないわけがない。楽しい気分で食べる食事程美味しい物は無い。北海道が地元の人も同じで楽しい気分で里帰りして自分の好きな店で気軽で楽しい気持ちで懐かしい味を食べる。これほど美味い物は無い。育った味は何物にも代えがたい。

東京と北海道の寿司はやはり別物である。物価がそもそも違うので高い安いと言ってもあまり意味がない。

そういう点では店の選択肢の多い東京も大変良い。東京の街の寿司屋も素晴らしい。親しい仲でも回転寿司に連れていっては中々落ち着けない、美味しく食べられない場合も多々ある。食とは五感で楽しむものであるから、安くて美味い店を知ってるだけではスムーズに事が運ばない事も年齢を重ねると多くなってくる。

洋服と同じであるが、若い時は安くて美味い店を知ってるだけで何かと事はスムーズに進んだが、齢をとってくるとそうは言っていられない。誰と会うか、誰とどこに行くかで服装も変わるように店選びも変わってくる。窮屈に感じる人もいるかもしれないが、それが大人の素晴らしさでもあると思う。TPOに合った服を選ぶ、店を選ぶという事は自分が恥を掻く掻かない以上に相手の事をどれだけ想っているかの内面が外に滲み出る事である。

これは別に地方の寿司職人の質がどうこうと言う訳ではないが、単純に東京は寿司職人の数も店も比べ物にならない位多い。歴史もある。人が集まるという事はそれだけ金が集まるという事でもある。だから駄目な寿司屋と同じ位良い寿司職人も店も育ちやすい。東京の方が洗練された寿司が出てくる事が多い。勿論駄目な寿司屋や寿司職人は淘汰されていく。地方は新鮮で物は大きいのだが手が入ってない分、味が引き出されていないなんて事も多少ある。

寿司も新鮮なら美味いという事ではない。それではただのご飯の刺し身乗せになってしまう。

例えば一人者が北海道から東京に出てきて沢山ある街の寿司屋巡りをする人なんて殆どいないだろう。仕事の付き合いで何件か行く程度か。それだと中々自分に合った街の寿司屋を見つけるのは難しいだろうし、「自分は美味くて安い寿司を知っている」という自負があればある程、中々東京で寿司を食う気がしなくなるのも分かる。まあそういう人は無理に食べる必要もなかろうとも思う。とは言え単純な旨さ安さ以外の価値観を持って使い勝手の良い店を知っておくと便利である。

何が言いたいかというと寿司は場所が違えば楽しみ方が随分と変わって来るものであるから、まずは自分の居心地の良い自分に合った店を見つける事だ。まあ寿司屋に限った事ではないが。

学文は近所の寿司屋ではあまり予約をして出かけない。学文は電話が嫌いだ。リンリンと所構わず鳴り始める。電話にはうんざりする。顔が見えないのでそれも多少緊張する。だからといってTV電話なぞ出る気は全く起きない。

電話での緊張と言えば学文の様な昭和世代では学生の頃女の子に電話をすると親がでるという儀式をくぐり抜けてきた。今では個人で電話を持っている。素晴らしい時代だと思う。

こちらの店はいつも近所の人で賑わう人気店なので勿論入れない日もある。まあその時はその時だし、「また来るよ!」と気持ちを切り替え別の近くの店に切り替えられるのも近所の街の寿司屋の良いところである。

話はそれたが学文達は青梅街道から少し入った南阿佐ヶ谷の住宅地にある寿司屋の暖簾をくぐる。もういい年であるし、何度も利用している店なので緊張も躊躇もしない。これが大人になるという事である。

まあ初めて街の寿司屋に入るのは多かれ少なかれ躊躇する人も多いと思う。常連が多い店なら尚更であろう。初めての店で常連がじろって見てくる(ような気がする)。味は普通。居心地は良く感じない。そういう経験が人を大人にする。そしてそういうチャレンジをしているうちに良い店に当たる。この経験は何事にも代えがたいし、自分に合わない店に当たった経験なんて吹っ飛ぶ。そもそも自分に合わない店はもう行く事はないのであるから例え多少居心地が悪い店に当たってもどーんと構えていれば良いのである。

学文の行く街の寿司屋も中の様子は外からでは分かりにくいので初めての場合躊躇する店構えであった。しかし暖簾や店先が綺麗だったので悪い店ではなかろうと入ってみたのが最初である。これが大当たりであった。まず店の名前が大変目出度い。

大変目出度い店だと思いながら店に掲げられている「食品衛生責任者」の名前を見てみたらその店名は本名でしかも姓も名も大変目出度いお名前であった。

名前が良いと気分も多少上がる。実に愉快だ。

学文は大体ここで酒のつまみになるようなお通しを一通り貰う。こちらの大将も大分年齢を重ねてよい年齢になってきてるので大人数の刺身盛り合わせや、あまり時間が無い時は事前に予約した方が良いだろう。街の寿司屋ではそんなにせかせかするのも粋では無い。

学文は大抵お通しを楽しみながらゆっくりとした時間を楽しむ。時に大将と少し話をする。ここの大将はユーモアもあり良い味を出している。奥さんも人当たりが良い。

この日のお通しは辛子酢味噌あえ、さざえと蟹の足、玉子焼き、白子、白魚と鯵の小鉢、煮こごりが出てきた。

寿司も良いがやはり街の寿司屋ではこういった酒の肴でじっくりやるのが実に楽しい。これをやりながら寿司はにぎりの特上を頼む。特上とは言え三千円であるから割と良心的な値段である。

麦酒瓶を1本、連れと二人で開けたあと日本酒を1合頼んでお通しをつまみながらちびびちとやっていると寿司下駄にこれでもかと言わんばかりに乗せられた寿司が出てくる。二人で行くと大抵2人前を乗せた寿司下駄が2つ出てくる。こちらのお寿司は酢飯は若干小さめに握られている。大人になるとこれくらいのサイズが食べやすく嬉しい。これ以上酢飯が多いと色んなネタや肴が楽しめない。また時期によって高値となる雲丹等が他のネタに変る事があるがそれはしょうがない。街の寿司屋だ。この値段でこの質なら大変良心的で文句もない。

学文は最初に出てきた一つ目の寿司下駄の上の寿司に目をやる。その様は華やかな魚たちの躍る竜宮城のようである。そして何からいこうかと目移りする。

勿論基本的には淡白なさっぱりした寿司から味と脂が濃い寿司へ行くのが良いのだろう。とはいえ特に会食でも無ければ接待でも無い。街の寿司屋である。そこまでマナーやルールに縛られる事もなかろう。美味しいと思う物から食べるのがこういった普段遣いの街の寿司屋では一番であると思う。

ちなみに学文の性格的には好きなものを最後にとっておきたい性分であるからして当たり障りの少ない、海老や数の子から行きがちである。皆さんはどうだろうか?

こちらの寿司は派手さは無いが大将の心遣いやさりげない技術が入っていて食べやすくどれも美味しい。これが近所の人、老若男女から愛される所以であろう。店の居心地もBGMは大将の声かTVから流れる相撲だったりするのがまた良い。

酒と一つ目の寿司下駄をやってると少し遅れて二つ目の寿司下駄がやってきた。こちらに乗せられたトロたくがまた中々良い味を出している。

しかし子供の頃は中々美味しい本鮪の赤身を食べる機会が無かったので鮪の部位の王様と言えば大トロ!という感じであったが、本当に美味しい鮪の赤身を食べてからはそんなに大トロに興味が無くなってしまった。勿論年齢を重ねて脂っこい物をそこまで美味しいと感じなくなっている事もあるだろう。普通に食べるなら中トロ位が良いなと思う。しかし赤身はやはり確かな素材と技術がある店で食べた方がやはり美味いし、美味しい本鮪の赤身は大トロや中トロには無い旨さがやはりあると思う。昔の人が鮪の赤身を重宝して大トロは見向きされていなかったという話も少し分かる気がした次第である。

二つ目の寿司下駄が出てきて食べ進めていると味噌汁が出されでもある。ひとまず注文の寿司は全部出しましたという合図でもある。この味噌汁も出汁が効いていて美味しい。

なんだかんだで食べ進み寿司下駄には赤身とイクラが残っていた。雲丹がある場合は大抵雲丹も最後に残る。軍艦なんかは海苔が湿気ないうちに食べてしまった方が良いのだろうが、根が貧乏性であるからして雲丹やイクラをすぐに食べてしまうという事は学文はまず無いのである。

しかしいつまでも寿司下駄に寿司を残しておいてもしょうがない。
どうせ残っている寿司はどれも学文の好みのネタである。最後には頭の中を空っぽにしてエイヤっと鮪やイクラや雲丹に手を付ける。大抵最後にはちょこんとガリだけが残って学文を一瞬寂しい気持ちさせる。しかし一呼吸おいて自分の身体に聞いてみればお腹はちゃんと満腹である。最後に簡単なデザートを出してもらって満足して店を後にする。次食べられるのは正月であろうか?

学文の家では今ではお正月にお節は用意しない。学文の好きな伊達巻や卵焼きをちょこちょこ買うくらいである。その代わりに元旦はこちらで握り寿司を頼む。持ち帰りはお戻しの必要の無い容器に入れてもらえる。しかし学文は寿司桶で頼む。勿論使い捨ての容器に入れてもらって帰ってから正月用の少し品のある皿に移して食べるというのも正月らしくて良いだろう。

しかし学文は寿司桶に入った寿司も好きでつい寿司桶で頼んでしまう。これは幼少の時のからの美味しく食べる為の自分の中の刷り込みが何かあろのだろうと学文は思っている。まあ桶に限らず美味しい食べ物を更に楽しむ為に器も大事な要素であるので学文の様な無頓着者が正月の時位器に拘るのも理にはかなっている。

近所に自分に丁度よい街の寿司屋を見つけられた人は幸せである。

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