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【後半】怒涛の2016年。父親がガンになるということ。

前半から日は少し経過し、10月25日。父から電話が鳴る。

前半(https://note.mu/ais_smile/n/n16b2668c2e48)

「実は今日戻したんよ。トイレで。」

嫌な予感がよぎる。そこから第2クールの抗がん剤を打つために父は病院へと向かった。が、しかし結論から言うと、第2クールは実施されなかった。

膵臓癌が肝臓まで転移し、体力もなくなっており、第2クールは実施されなかった。それと同時に、父は名古屋の病院に入院することとなった

そしてもうひとつビックニュースが。2016年11月2日、姉の第一子妊娠が発覚したのである。そこから少しずつ姉のウエイトを減らしていくこととなる。

2016年11月2日に母から電話が鳴る。「病院から早くご家族の方来て欲しいって」と。

2016年11月3日。当時彼氏の旦那と結婚式の下見へ。その時はほわほわしてた。というより、全て旦那に決めてもらってたと思います。

2016年11月4日。名古屋へ。その時医師から宣告を受けることとなる。

「ガンが肝臓まで転移しています。もし病院を大津へ移られるのであれば早めに。。。」とのことだった。

その時病気になってから初めて父が涙を見せた。もうその時すでに車椅子に乗っていた。父は懸命に話す。「死ぬときは大津で、家族の近くで」と。母は気が動転し、ただ手が震えていた。

その後、父だけ病棟へ。母と私が病院へ残された。そこで余命宣告を受ける。

あと2ヶ月。年明けくらいかと。。。

その時とても冷静に聴いていた。いよいよ迫っていることを感じた。そして私は説明を受けたサインをして、医師と話し、早急に転院手続きをすることとなった。父はぐったりした様子で、私に聴く。「なんて言うてはったんや?」と。私は包み隠さず話した。そうすると「そっか」と。私は病院の洗濯機をただただ呆然と見ていた。

2016年11月11日。また電話が鳴る。「早く病院に来て」って。11月12日手続きを済ませて、大津の病院へうつることとなる。

2016年11月13日。私は披露宴の準備のためカラードレスを選んでいた。この画像を父に送ると「あいちゃん綺麗!」と連絡がきた。文字通りこれが父と連絡した最後となる。

普通は幸せいっぱいって感じなんだろうけど、もうそれどころではない。いかに迅速に進めるかそれだけだった。本当に。もう心はなかなかの限界だった。

2016年11月17日、父が名古屋から大津へ転院した。その時に名古屋でガン友と撮った写真が残っている。これが父が立って撮った写真の最後だった。

2016年11月18日。ここからも怒涛の日々だった。私に一件の連絡が入った。父から電話である。「お母さんと病状を先生から聴く予定だったけどやめました」と。胸がざわつく。そこで私はお昼からお休みをいただき、急いで病院へ。父が看護師さんとお話している途中だった。「あぁあいちゃん!これがうちの次女です」と説明した父は、まだ喋れていた。そこから胸騒ぎがしたので父に聴いた。「父ちゃん、絶対お母さんに聴かせたくないと思ったから辞めたんやろ?」と聴いた。そしたら「さすが娘やなー!そのとおり!」と。

父は自分自身の病が悪くなっていることを分かっていた。母はこの時平常でなかったので、伝えないようにしたのだ。そして私は父とたくさん2人で話した。その日は3時間くらいだったと思う。先生のお話を姉と聴くまでの間、ひたすら話した。

「あいちゃんはもっと強くなりなさい。あなたはまだまだ弱い。あなたが強くなったら、周りも助けられる。強くなって、お母さんとお姉ちゃんのことを頼んだよ。何よりお父さんはお父さんの役割は果たしたと思ってるから。」

と言ったのである。私はただただ号泣しながら、病院で父と話した。こっぴどく怒られたり、泣いたり笑ったり、とても濃密な時間だった。

2016年11月19日。私は当時の彼氏の旦那と母と病院へ。記念になればと思い婚姻届の証人に父の名前を書いてもらった。これが父の直筆のもので最後となる。これは結局使われず、額縁に入れて飾っている。父は旦那に語りかけるように話した。

「あなたもあなたが信じることをやりなさい。レールにひかれず、お互いのやりたいように、うちの娘はできはいいからね(笑)」と。笑

じわっと感動した。でもこのときはすでに車椅子で1時間話すのがやっとであった。この日は結婚式の白いドレスを見に行った。採寸もしてもらったのである。

この時ももう綺麗だーと思ったら直感で決めた。ほんとに即決。

2016年11月20日。姉から電話が入る。「あんた結婚式のウェディングドレス、お父さんの前で着たら?今しかチャンスがないで!」と。急いで連絡し事情を話した。採寸した通りに1日で形にしてもらえることになった。

ちなみにこの日、父が選んだお墓が決まり、旦那との新居の場所も決まったり、すべてが決まるという日でもあった。もうこの辺りになると、何をやってたのか覚えていないくらい。

2016年11月22日。午後にお休みをいただいて病院へ。父はピンとがあっていなくなっていた。そして医師のところへいくと「年内も12月中旬も危ないかもしれない」と言われた。若くて進行が早かったためである。もうびっくりだった。すべてが早すぎる。

そして2016年11月23日。私は病室でウェディングドレス姿を父に見せることができた。

この時、父は目を見開いて私を見てくれた場面があった。何となくでも伝わったらいいなと思いさせていただいたのである。家族で最後の集合写真も撮影した。

2016年11月24日。父の名義変更しといた方がいいと言われたものを行った。この日、大津▶︎福知山▶︎大津▶︎福知山を繰り返した。人生後でも先でもこんだけだから往復したことはないと思う。もうわけがわからなかった。

2016年11月26日には酸素マスクをつけていた。この時から母の後悔がないようにと、母を病室で泊まらせていた。そこで一つ決めていたことがある。父が亡くなった場合、母には

「家族を呼ぶように伝えてください」と言ってください。と頼んだのだ。

母はもう父のことで頭いっぱいすぎたので、そのように看護師さんに伝えていた。

2016年11月27日には足をさすりに行った。もう父の足はパンパンだった。

2016年11月29日午前、職場の人に状況を伝えると帰るようにと言っていただいた。そこで午後から帰る事になった。帰ってきたのが11月29日の午後で晩までお父さんの近くにいた。これはもしかしたら父が時を呼んでくれたのかもしれないと思った。

そして2016年11月30日午前4時20分ごろ、母から私に電話が入る。

「病院の人が家族を呼んでって」と。

ここで私はすべてがわかった。私は実家に帰っていたので、急いで病院へ。まだ父の身体は温かった。父が本当にきれいな顔で最期を迎えたのだ。

本当にここまであっという間だった。父が膵臓ガンと分かって約半年間。ほんとに一瞬ですぎた。

父は野菜ジュースを作って飲んだりとても病気と向き合っていた。本当はまだまだ教えて欲しいことがあった。それは亡くなって今になって思う。

でも不思議とこうしておけばよかったという後悔はない。それは父が全て叶えてくれたのではないかと思う。本当はちゃんとしたウェディングドレス姿を見せたかったし、私もバージーロード歩きたかった。でもでもこれはひとつの運命。父が言った言葉で印象に残ってることがある。それは

「病気になったこともこれは運命。すべてが運命なんやで。だから受け入れたんや」と。

まだまだ父には追いつけないけど、一歩一歩歩んでいきたいと思う。お父さん、いつまでも見守っていてね。そして約束通り私を迎えに来るのは100歳になったらで!!

もしご家族が病気の方がおられたら、こちらを読んでいただけたらと思います。

#家族 #病気 #膵臓ガン #ガン #娘

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