15年前の読書感想文/現代の武士道とは??

15年以上前の感想文の転載です。

「武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である。それは古代の徳が乾涸びた標本となって、我が国の歴史のさく葉集中に保存せられているのではない。それは今なお我々の間における力と美との活ける対象である。」

というあまりに有名な書き出しで始まる新渡戸稲造の「武士道」が面白い。だいぶ昔に読んだのだが、何も覚えていなかったことを思うと、多分何も読めていなかったのだろう。情けない。30カ国以上で訳され、以来、「サムライ」の名を大いなる畏怖とともに世界に知らしめた名作である。

 何より文章が素晴らしい。僕はどんな本を読むにしても文章自体に惹かれないと読み続けられないのだが、この文体はかっての武士道のように高貴で、無駄がなく、また豊かである。ただし、この本はもともと英語で書かれた本だということをつけくわえておこう。僕の行っていたUBC大学には「新渡戸稲造会館」があった。ちゃんとしっかり見てこなかったことを死ぬほど後悔している。

 この作者である新渡戸稲造という人は、「本の読みすぎで失明しただか、しそうになった」という話を前に父から聞いていた。読んでみて、納得した。博覧強記もいいとこである。彼の自由奔放な引用には舌をまくしかない。シェークスピア、ラブレー、ホッブズ、から武田信玄、滝沢馬琴、カエサルから孟子、孔子、ニーチェ、ヘーゲルと快挙にいとまがない。150ページの薄い本だが、簡潔でありながら含蓄に溢れている。

 新渡戸稲造はある時ベルギーの法学者から「日本には宗教教育がない、とは本当ですか」という趣旨のことを尋ねられ、「ありません」と答えたところ、「宗教がない!それでどうやって道徳を教えるのですか?」と驚かれたのがこの本の執筆の原因だったと言っている。「神道があるじゃないか」などと言わないで欲しい。神道はキリスト教や仏教が「宗教」であるのと同じ意味での宗教ではない。
 
 道徳というものには基盤がない。「それは何がしていいことで、悪いことか」を伝えることはしても、「何故これはしていいことであれは悪いことなのか」という問いには究極的に答え得ないものなのである。芥川龍之介がたしか「道徳というのは基本的に交通標記と同じものである」と言っていたが、それらは結局「みんなが自由に人殺しなんかをしたら、社会は成り立たないし、危ないから殺人はしてはいけないことにしておこう」程度のものなのである。「何故人を殺してはいけないの?と子供にきかれたら」という特集を文芸春秋が組んだことがあったが、この問いにかんしては「聞かれた者負け」なのである。

 そのように本来無根拠なものに強制力をもたすにはひとつしか方法はない。絶対者の存在を信じ、そこに全決定権を委ねること。これである。真摯なクリスチャンであれば、「何故人殺しをしてはいけないの?」と聞かれたら「反社会的だから」とか「不道徳だから」とは答えまい。「聖書にそう書かれているから」と答えるだろう。言い換えれば「全知全能の神がいて、その方がしてはいけないと言ったから」ということになる。このようにあくまでクリスチャンにとって(あらゆる原理宗教者にとって)道徳や行動規範などというものは、絶対的ではなく、あくまで暫定的なものなのだ。十戒に「汝、殺すべからず」と書かれているのにも関わらず、アブラハムは神に「あなたの最愛の息子を神への生贄にささげよ」と言われた時、ためらうことなく我が子を殺そうとした。神がそう命じたからである。この「神がそう言ったから」というのはトランプでいうジョーカー、もしくは理性的宇宙におけるブラックホールみたいなもので、あらゆる理性的な問いそれ自体を無化してしまう。けれど宗教を持たない日本の場合はこの切り札がない。結局どんな道徳的価値観を叩き込んでも基盤がないのである。

 最近「若い日本人のモラルは何処にいった」的な言説が飛び交っているが、そのような社会的背景もあってか、この「武士道」の現代版解釈本みたいなのがベストセラーになっているようだが、僕は疑問を感じた。ネット上での「武士道」の感想や読者の推薦文にも首をかしげるものが多かった。
皆一様に感動し、「現代の侍として誇りを持って侍ビジネスマンになろう!」
と謳ってる人が多い気がする。

おーいちょっと待て、とそれを読んで僕は思った。このような「サムライビジネスマン」というのは何だろう。冗談かと思っていたのだが、結構頻繁に耳にするのだ。要するに「武士道精神」を受け継いだ現代人ていどの意味なのだろうだし、何となく言わんとすることはわかるのだが、イヤらしいと思いながらもこの人は本当にちゃんと読んだのかと言いたくなってしまう。
ビジネスマン、と武士が互いの北極に位置する存在だというのは本書の中で新渡戸稲造がはっきり言っているではないか。

レッキーの数えたる信実の三つの誘因、すなわち経済的、政治的、および哲学的の中、第一のものはまったく武士道に欠けていたー(中略)武士道は「或ものに対して或もの」という報酬の主義を排除するが、狡しらなる商人は容易にこれを受容する。
「武士道 矢内原忠雄訳69~70」

 武士にとって金銭を扱い、それで食べていく商人は「見下すべき、卑しいもの」だったのである。武士道とは商人的な生き方に対峙する強烈なアンチテーゼだったのだと言っても過言ではない。ビジネスマンと商人を一緒にするな、と言われそうだが、あえて言わせてもらう、一緒である、と。武士道が卑下したのは経済的な利益追求そのものであり、現代のビジネスマンと当時の商人もこの点から見れば、程度の差でしかない。社会人の中で「私の仕事は経済利益とまったく無縁なものです」と言える人がどれくらいいるだろうか。

 僕はどんな意味においても「経済的利益を追求することは悪いことだ」と言ってるわけではない。それは人間としてこれ以上ないくらいまっとうなことだし、健全なことだと思う。逆に「無私無欲」を自称する人間がいたら、僕は逃げる。

 もちろんあらゆるテキストは(特に古典)はあらゆる解釈を歴史との遠近法の中で許すものだし、この「武士道」をビジネスマンの処世術にアレンジしてしまうことも可能だろう。けれど、「武士道」そのものが成立したコンテキストを骨抜きにして、そこから「我が誇らしき祖先」を読み取って、国際社会における現在の日本人のコンプレックスを埋め合わせようとするのには無理があるだけでなく、その解釈そのものにちっとも「武士道」的なものがないではないか。それでは「家のお祖父さんは偉い役人さんで・・」と自慢する小学生と一緒である。

 ならばいっそ武士達が何よりも「義、勇、仁、礼、名誉、忠義」に従い、その為なら命をも捨てたように、ただひたすら純粋に利益を追求し、その為なら裸踊りだろうが、精神的売春であろうが厭わない会社員の方がずっと「武士的」ではないか、とセンスの悪い嫌味のひとつも言ってみたくなる。

 戦の機会を奪われた侍は、社会的地位こそ高かったものの、経済的には乞食当然で、まともに食べれなかったことは社会科の教科書にも載っている。彼らは霞を食べて生きる仙人と同種の生き方を選んだ人たちだったと言っていい。ヨーロッパの騎士たちが武士たちよりも長く文化的に生きながらえることができたのは、彼らが武士たちとは違い「経済利益の追求」を禁忌化しなかったからである。それに彼ら貴族たちは何よりも土地という財産を所有していた。

 反対に武士達は商人を中心とする経済社会の中では生き残ることができなかった。また生き残ることを選ばなかった。それは良い悪いではない、ただそういう生き方だったのだ。僕はその信念の強度にただただ畏怖を覚えるだけだ。
現代の武士たろうなどとは思わないし、武士精神の復活を!などとも叫ばない。
そのように生活を笑い飛ばし、ただひたすら武士という人生を生きた彼らをもちろん僕は尊敬するし、自分勝手な誇りも感じる。

 けれど、少なくともこの本を読んだのだから、中途半端に感化されたり、急に日本文化至上主義にもなれない、だってそんな安っぽいノスタルジーは、「武士道」から一番遠いものだってこの本は言ってる気がするから。

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