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研究において再現性というのは切っても切り離せないと思ってるし、そこを抜いてしまっては全く持ってデータが信頼できないと思ってる。

しかし、私の知人がいたところでは、そういった再現性に疑いがあるデータが飛び交っていたそうな。ちなみに、これは医学・歯学・薬学・生物学といった再現性がとりにくい場所ではなく、半導体に関する話である。

耳にしただけの話がおおいので、恐らく、意味合いが違う可能性もあるが、とりあえず、こんな感じの話だった。

半導体、特にトランジスタを作る際に、使われる。

半導体の研究の際に試料を作る必要があるが、その際に、リソグラフィと呼ばれるものがある。これは半導体ウエハに回路パターンを焼き付けるための装置またはその過程のことを指す。

その研究室の研究では、リソグラフィでどうも、先細りのパターンを焼き付けるらしい。先細りのパターンというのは、なんというか、先細りの蝶ネクタイのような構造らしい。そのパターンに従い電極を蒸着するが最初はつながっているのだが、どうも、細くなっているところは弱くなりやすく、そのパターンに大電流を流すとその部分がキレてしまうらしい。なぜ、そのような構造が欲しいかというとどうも数ミクロンのギャップを作りたいかららしい。ただ、この構造は電流を流すと変化してしまい、大まかには変形がコントロールできるが、細かくは難しいらしい。具体的には電圧の上げ下げをして電流をコントロールするらしい。でもあげすぎるとギャップの部分が切れてしまう。そのため、電圧を高くして電流を流し、先細りの構造であるギャップの部分が切れそうになったら、電圧を小さくして電流を小さくするということを繰り返すらしい。それを繰り返してじわじわと弱るように、目的のパターンに電極を蒸着させるということを行なうらしい。この作業によって、ある程度のコントロールはできるけど、同じ条件になるべくしようとしても電極の調子で少し変化が起きるらしい。正直、誤差範囲に入っているのではないかと思われるほど、小さな範囲でそう考えないと無理ではないかと思われる。

かつては量子ドットをはさんで制御をするという手も考えられたが、ドットの大きさの再現性がうまくいかないということで頓挫したらしい。

その当時は、電子一個を電子ドットの中に閉じ込めるとかいうことを行なっていたらしいがね。

そういうことで、試料を作った後に電気的な測定を行なうと、その年に行った実験とその後に行われた実験で、再現性が取れないということが頻繁に起こったらしいが、なまじっか再現性をとろうとすると、うまくいかず、研究がまとめることができないため、再現性をとらずに、研究室を出るということが多くあったらしい。

それと、なまじっか、本当の状況を担当教員に報告すると相当面倒なことになるらしい。ある意味、予想が結果を混同するという典型例なのだろう。

ちなみに、再現性がなぜとれないかという部分に関しては、あまり考えられおらず、そもそも、その研究室はモノづくりと称して、作りにくいものを作り測定しにくいものと測定するということをやっているのだが・・・そもそも、モノづくりという言葉を非常に作りにくいものを作ることだとしか考えておらず、目的がはっきりしていない、いわば迷走状態にあるとのこと。

なぜ、そうなったか?実は、研究室にある高い装置だけを使うことが第一の目的であり、研究に関する目的は後付けということをやっていたことが原因だという話。

例えば、量子ドットを研究していた際は量子コンピューターに応用すると表向きはいっていたが、そもそも量子コンピューターって何?という状況だった模様。大体、シリコンを使えばできるものをわざわざガリヒ素にする理由も謎だし。まあ、インジウムアンチモンならまだわかるが。

ちなみに、なぜ、高い装置を使うのか?というと、どうも、高い装置の実験をやれば、競合者がいないので、でたらめやってもわからないので、批判をかわせるのではないかという疑念がある模様。そもそも、それを科学と言っていいのかが非常に疑問だが。また、自分のところにある高い装置を使わなければならないという脅迫概念があるらしい

ガリヒ素の基盤を作るMBEなどの高い装置を2代ほど貰った場合、それ以外の材料を検討するとかできなくなるという謎の現象が起きているらしい。その教授の身に。ちなみに、ガリヒ素で基盤を作る際に用いられたMBEは廃棄する際に、酸処理などいくつかの工程を踏む必要があるらしく、MBE内の残留したヒ素をより安定的なアルシンに変えてから処理するらしい。どうも、そのまま、ヒ素が残留した部分を開けると、酸素と反応して、毒性の強い酸化ヒ素が発生するとかなんかとかいう話だった。それで、いろいろとMBEの処理費用がかなり掛かるらしい。

私がついた先生曰く、「ガリヒ素の基盤用につかったMBEを2台も保持するのは大学の研究室では本来無茶な話で、退職の際の実験道具の処理の際にどうするつもりなのか?」らしい。つまり、かなりまずいことらしい。

その時点で、モノづくりが好きとか、真理を探究するとか、物理にロマンを感じるとかいっていいのかは怪しいが、そういうことがあるらしい。

にしても、そういったことを繰り返して、本当に研究できるんだろうかね?私は甚だ疑問だと思う。

まあ、最近は、電圧の上げ下げはプログラム制御でできるらしいので、人間によるエラーは少なくはなったらしいが、ギャップが大体何ミクロン以下に作ることはできても、目的の長さに具体的にぴったり作るのは難しいもよう。以前は、1/100の確率で昔はできていたと言われていたが、確率ではなく、本来は、何が原因で、不安定なのか、条件を洗い出すのが重要だと思うのだが・・・。

それにしても、半導体の特殊な構造を作るのは別にけっこうだが、測定する際に、一部を冷やすらしいが、光学的に測定して、冷えているはずだという間接的に情報を集めるなどをするらしいが、正直、どれくらい精確なのだろう?と知人の話を聴いて思った。

ここからは私の私見だが、やっぱり、再現性をとることを第一に考え、うまくいかないのであれば、それはなぜかということを考え、条件を洗い出すことがやはり必要なのではないかと思う。

さもないと、実験結果から得られた知見を積み上げることができず、何十年も解決ができず、不毛なことになりかねないから。

物理のロマンを感じることも、真理の探究も無理だろう。そのような状況では。モノづくりが好きと言っても結局、よくわからん構造を自分の研究室にある高い機械を使いたいがために、やっているだけじゃ。

そして、よくわからん、理論を振りかざし、実験がうまくいかないのは学生が悪いというようなことを言いだした日にはどうにもならんよ・・・。

最近は、アカハラが問題になっているけど、結局、それは、身勝手な妄想を学生に押し付けるからそうなるのではないか?と考えざるを得ないのではないかと思ってしまう。

そう考えると、やはり、理論は二の次、実験結果がメインで、実験結果の再現性を追求し、その結果、得られた知見から、真理の探究をし、物理のロマンを感じるのがいいのではないかと思ってしまう。そして、単に、作製が持っている装置では難しいモノを作るのではなく、その実験用途に応じた試料を作る際に、最適な材料を自分の頭で選んだり、構造を考えたりと、そういった思考をすることで、モノづくりが好きだと初めて言えるのではないかと私は思う。

それをやるには、再現性をキチンと取るということが重要なんではないかね。

だって、信頼性のない、次、測ったら、データが変わってしまったということを繰り返しているのでは、次の方法が打てないし、結果的に、自分のデータが信頼できなくなってしまうから。

それにしても、いろいろとツッコミがたくさんあるのは私だけだろうか?

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