炎の夢
炎の夢を、見たことがある。
それは、まるで火事の渦中かのように前も後ろも炎で、逃げ場がないのに怖くない、と初めて見た時からなぜかそう直感していた。
あまりにも何度も同じ夢を見るので、だんだん慣れてきた私は、次第にその場で寝転んだり散歩をしたりしていた。
動けばその通りに炎が私を避け、真っ暗な世界を赤だけが煌々と照らしていた。
そんなある日だった。炎の夢ばかり見ている私を心配した母が、カウンセリングに連れ出した。当時の私は、それが悪夢だと思ってもいなかったので、相談員に質問されるまま、嬉々としてその夢の話をした。
しかし、相談員のしかめた顔を見て私は幼いながら察した。
これは、誰にも話してはいけないことだったのだ。
それからというものの、私は炎の夢のことを誰にも話さずに、十数年が経った。
平凡な成績で高校を卒業し、平凡な大学生活の夏休みを過ごしていた喫茶店のオープンテラス席で、転機はやって来た。
「すみません。ここ、いいですか?」
「え」
ナンパをされるのは初めてだった。女一人がコーヒーを飲んでいる私の方が迂闊だったのかもしれないけれど。
「どうぞ」
一瞬の気の迷いだったかもしれない。普段だったら、私はそんなことを言わないのに、なぜか彼なら大丈夫、とどこがで思っていたのだ。
「ありがとうございます」
そう答えた彼は、一見ナンパ慣れしているような人ではなかった。
清潔そうな青い髪に、この辺りでは珍しい黄色の肌。撫で肩に風変わりな着物を羽織っていて、彼は外国人なのでは、と私は推測した。
「座るところがなくて困っていたんです」
と彼は言ったが、手持ちどころか鞄を持っている様子はない。座る理由はどこにも見当たらないが、確かにその日は混んでいて、どこの席も空いてはいなかった。
「必要でしたら、私はそろそろ行きますね」
手元のコーヒーはそろそろなくなる頃。私は立ち上がろうとした。
「待って」
彼はびっくりするくらい素早く私の手首を掴んだ。
はずみで近くのコーヒーカップにぶつかり、中身をこぼしてしまった。
「す、すみませんっ」
彼は勢いよく立ち上がり、私から手を離した。
「いえ、大丈夫です……指に少し掛かっただけなので」
そんなことより、この目の前にいる怪しい男から今すぐにでも逃げなくてはと思った。お気に入りの服にシミが出来なかっただけまだマシだったと思うようにしようとした……。
「それは大変です。火傷をしていませんか?」
「え」
手を引っ込める前にはすでに、彼は何か言葉を発した。聞き取れなかったが、彼の手から淡い光が放ち、それがみるみる内に私の指先から火傷の痛みを和らげたことから、呪文であったことだけは分かった。
「あ、あなた、魔法使い……?」
彼は不敵に笑んだだけだった。しかし、それ以上会話をする余裕はなかった。
ドォーン……。
爆発のような音。
次には、路地裏から黒煙が噴き出し、一気に湧き上がる悲鳴と怒声。私は、声すら出せずにその場で立ち尽くした。
「しまった……こっちです!」
しかし、向かいの彼は冷静で、今度は私の手を掴んだ。
思わぬ出来事に私は瞬時に握り返し、次に何が起きたか見る間もなく、ふわりと宙を浮いた。
一瞬、爆発に巻き込まれたのかと思った。
だが、それはすぐに掻き消された。
あっという間に足下が高層ビルの高さを越えた景色を見て、これが魔法使いの力なのだと私は感じた。
「すごい……魔法使いさんは箒に乗らないのね」
そんなことを言っている場合ではないのだが、私はそう言った。
「俺が箒乗りが苦手なだけです」彼は私の手を引いたまま答えた。「……魔法使いのこと、怖くないですか」
私は彼を見上げた。彼は、もくもくと立ち上る煙をみつめたまま、こちらに一瞥もしない横顔を見せた。
「驚いたけど……今は、怖くないわ」
私は正直に答えた。あの炎の夢が魔法だったとしたら、もっと怖くないのに。私は、この話をしようとして思い留まった。また、変な風に思われたらどうしよう、と。
そんな時、眼下の街が赤くなってきたことに気が付いて目線を落とした。そして、私は息を飲んだ。
街が、道路伝いに燃え始めていたのだ。
「詳しい話はあとで話します。俺達は、最近起きている不審火の事件を追っているんです……」
「あの火、見たことあるわ」彼が言い切らない内に私は言った。「夢の中の火だわ」
「え?」
次に驚いたのは彼の方だった。もしかしたら彼は、私の夢の話を疑いにかかったかもしれない。
「夢の、話なんだけれども……でも私、あの炎は怖くないわ」
否定される恐怖はあったけれども、誰かにこの話を聞いてもらいたい。幼少期に閉じ込めたこの思いを、空を飛んでいる非現実的なこの状況下なら話してもいいのでは、と思ったのだ。
「それは、もしかすると」魔法使いの彼はゆっくりと話し出した。「……この都市には、災いの日にどこかともなく炎馬(えんば)が現れる話がありまして。その話の中では、炎馬を使役する魔法使いが現れるんです」
「それが……あなたなの?」
彼が何を言わんとしているのか分からなかったが、私はそう訊ねた。
「いえ、あなたです」彼ははっきりとそう言った。「俺はあなたを助けに来ました。あなたは炎馬の召喚魔法使いのはずです。一緒に、炎馬の怒りを収めてくれませんか?」
「え」
まさかの発言に、私は言葉を失った。
「魔法使いの反応があったので、あなたの前に来てみたんですが、俺の探知魔法が当たりました」
私が何か言う前に、そう言葉を続けた魔法使いの彼。
彼は少し嬉しそうな顔をちらつかせたが、すぐには真面目な表情になってこう言った。
「炎馬を止める方法が必要なんです。……俺たちと一緒に止めてくれませんか?」
「でも私、止め方なんて……」
炎馬の存在すら知らなかったのに。自分が魔法使いだとも思わずに過ごしてきた私に、一体何が出来るのだろう、と燃え盛る街を見下ろしながら不安になった。
もし、私があの炎を止めることが出来なかったら、町中が火事だらけになるというのだろうか……?
しかし彼は、どこから湧く自信なのか、しっかりとこう返してきたのだ。
「大丈夫です。俺たちは、魔法使いですから」
これは、魔法使いを毛嫌いしている人が多い、とある発展都市に起きた、小さな事件。
それがやがて世界を救う歴史に残る戦士の話となるのは、また別のお話。
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