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「普通」になんて、なれなくてもいいんだよ。

過去を振り返ると、わたしはずっと「普通」になりたいと思っていました。

わたしにとって「普通」とは、「周囲のみんなと同じであること」。もしくは「みんなと同じことができること」。

「普通」でいれば、みんなの仲間に入れるし、認められる。でも逆に、「普通」じゃなければ、みんなの仲間には入れない。認められない。孤立してしまう。

だから本当の自分はひた隠しにして、みんなと同じであることをアピールする。それがこの世界で上手く生きていくため、自分を認めてもらうための唯一の方法なんだ!

……って、そんな価値観を持っていたから、自分がいかに “普通” であるか、“みんなと同じ” であるか、それが「正しさの基準」になっていました。

だから、心身の大不調をきっかけに、世間の「普通」のレールから外れてしまったときは、自分のことを受け入れられなかったし、人生の希望を奪い去られてしまったような感覚でした。

でも、今はわかるのです。

そもそも、わたしはずっと「普通」なんかじゃなくて。みんなと違う自分をずっと否定して、見ないふりをしていただけだったんだってこと。

そして心身の大不調は、それに気づくための、ただのきっかけでしかなかったんだってこと。

– – – – – –

〝「普通」じゃないと、一人になってしまう〟という価値観は、完全に学生時代の人間関係によって形作られたものなのですが……これを持ち続けながら生きるのって、すっごくつらいのですよね。

だって、それを持っている限り、ずっと「そのままの自分」を否定し続けなければならないから。

というか、心身に大不調を来したのだって、「自分」を否定し続けたことによる歪みが表面化したものなんだと思っています。

▽ その辺りについてはこちらに書いています


でもいまだに、モヤモヤしたときにそれを深掘ると、「普通だと思われなければならない」「みんなと同じふうに装わなければならない」「違う自分を隠さなければ仲間に入れてもらえない」っていう価値観が根っこにあったりして……根深いなぁとため息を吐きたくなったりもします。

けれど、学生時代を振り返ってみると、“学校”が自分の世界の大半を占めていて、そこに馴染むこと、上手くやることが全てなんだと感じさせられるような日々だったんですよねぇ。

だから、この価値観は、そんな中で適応しようと頑張って生きてきた自分の勲章みたいなもので。深く根を張っているのも、無理ないよなあと思うのです。

〝学校という世界〟から外れることは、あの頃のわたしにとって「人生終了」「お先真っ暗」「正規ルートから外れたダメ人間」を意味していました。だから、逃げることもできなかった。

そして、声の大きい人、目立つ人が「正解」になりがちな学校生活では、“その人たちと上手くやること” が生き抜くための必須条件!みたいに認識していたので、一生懸命その「正解」に沿おうとしてきたんですよね。

いやほんと……我ながらよく頑張ってきたなあと思います。えらい。えらすぎる。

でもね、そんな世界観を、学校を卒業してからもずーっと引きずって生きていたんですよねぇ。

まさに、「学習性無力感」に陥っていたんだなあと思います。

学習性無力感(がくしゅうせいむりょくかん、英: Learned helplessness[1])とは、長期にわたってストレスの回避困難な環境に置かれた人や動物は、その状況から逃れようとする努力すら行わなくなるという現象である。
Wikipediaより引用

〝 子ゾウ🐘の足に鎖を繋ぐと、初めはそこから逃げ出そうと、何度も試みる。

けれど何度挑戦しても鎖はびくともせず、自分の力ではどうにもならない、ということを悟ると、いつしか子ゾウはそこから逃げるための挑戦をしなくなっていく。

そして、その子ゾウが大人になって、本気を出せば鎖なんて軽く引きちぎれるようになっても、もうその時には、鎖を外そうという選択肢すらなくなっている。〟


……子どもの頃とか学生時代って、自分ではどうにもできないことがたくさんありますよね。基本、環境を自分で選ぶこともできないし。

だから、その頃の経験から「わたしにはどうすることもできない」「世界はこういうものなんだ」って、自分を押し殺して諦めてしまったことって、色々あるんじゃないかなと思います。

でも、大人になった今は、逃げられなかった(と思っていた)あの頃とは変わったことも、たくさんあるはずなんです。

一生外れることはないと思っていた鎖は、実はすでに朽ちていて、どこへでも自由に歩き出せる……そんな状況に、すでにいるのかもしれない。過去の“常識”に従って生きる理由は、もうないのかもしれない。

身を置きたい場所も人間関係も、何をして、どんなふうに生きるのかも、自ら選ぶことができるのかもしれない。

……だとしたら、私はどうしたい?
そんなふうに、改めて自分に聞いてみると、新たな視点で世界を見ることができるかもしれません。

そもそも過去の自分だって、処世術として “普通になる” という選択肢しかなかっただけで、別に “普通” になりたかったわけではなくて。

本当は、安心できる居場所と、自分のままでいられる人間関係が欲しかっただけなんですよね。

だからもう、過去の “普通” に囚われなくていい。“普通” になんて、ならなくてもよかったんです。

今見えてる場所だけが「世界」じゃないし、身を置く場所が変われば「普通」も変わるから。

– – – – – –

“あなたは、どんな世界を生きたい?”
これからは、自分の本当の声に耳を澄まして、新しい世界に進んでみよう。

本当に “生きたい” “生きててよかった” と思える世界は、自分の本音の先に見えてくるものだと思うから。

大きく変化しなくちゃ!なんて意気込まなくてもいい。まずは今まで向いていた方向から、進行方向を変えてみるだけでも、見える景色はガラッと変化したりするのです。

未知の世界は怖いけれど。未知だからこそ、その先に本当に望む壮大なストーリーが待っているかもしれない!そんなふうに思うから。

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