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助六のプール (1)

「修行開始!」25mが泳げるまで。フェンスを乗り越え、プールサイドに降り立った助六は、早速服をぬいだ。水泳パンツは家ではいてきたので、準備は簡単。更衣室は向こうにあるけど、誰もいないのでここで靴と靴下もぬいでしまう。先生が怒るところだが、今日は日曜日、にぎやかなのはセミの声だけ。


 水泳帽とゴーグルをかばんから出す。体育の時間なら、準備体そうし、白い消毒液の浴槽につかって十数え、シャワーを三〇秒あびるけど、冷たくて嫌だからそのままプールへ飛びこむ。なんでも好きにできるのがうれしくて、助六はぶふふと笑った。


 さて、どうやったらクロールがうまくなるだろう。先週、プール開きがあり、助六たち6年生は全校で最初に泳いだ。桃栗第三小学校は、夏以外もプールの水を残しておいて、池の鯉をそこに棲ませている。そして、六月に入ったら6年生全員が鯉を網ですくって池へ戻し、苔で緑色になったプールをそうじする。だから、ふだんは下級生にゆずるのも、プールだけは一番に使えるのだった。


 6年2組はすでに3回プールの授業をした。けれどやっぱり助六は息つぎもうまくできず、去年と変わらない。これでは検定で7級あたりになってしまうと暗い気持ちになった。あこがれは6級だ。〈25mを泳ぐことができる〉。何度夢にみたことか。〈ろっきゅー〉、なんていいひびきなんだ。


 飛び込み台は6つある。助六は3番の列で泳ぐことにした。思いっきりけのびする。この前の体育でしたように、全身に力を入れて泳いだ。息つぎするたびに体が沈み、空気がほしいのか、水がほしいのか分からなくなってきた。苦しい……。途中で立った。


 プールは垣根でほぼ全体が囲まれているので、よほど近くへ来ない限り中は見えない。6年生になると、学校のあちこちに秘密の場所が見つかり、例えば空気の入り具合が丁度いいボールを取っておくために、下水用の石ぶたをあけて中に隠しておいたりする。このプールも、体育倉庫のほうへまわっていくと、誰からもばれずにフェンスをよじ登って入れることを知っていた。


「ろっきゅーろっきゅー」念仏のようにとなえる。今年こそ絶対泳げるようになりたい。7級では物足りないんだ。眼の周りの汗が蒸発して、透明のゴーグルが曇ってきた。一度水につけてまたはめる。助六はクラスで一番水泳がうまい流次を思い浮かべた。いつも楽々と泳ぐ流次は、持久走でいうなら平らのエスカレーターを走っているようなもの。助六といえば、おばあちゃんをおんぶしながら長靴で砂利道を走っている感じだ。


 最初は25mでなく、横に泳ぐことにした。幅は13m。両手を後ろにやり、けのびの姿勢をとると、前をアメンボが通っていった。「いいなあ、アメンボは」
「ひゃあ、生徒がいた!」びっくりしたアメンボが止まってこちらをみた。「あれ、しゃべらなかった?」思わず助六はきく。「ええ、しゃべりますよわたしだって。今日は日曜日なのに、何でここにいるんです?」
「水泳の修行だよ。25mを泳げるようになりたいんだ」
「それはご精が出ますね。梅雨の合間の晴れだから、気分もいいでしょう。私達はこれからピクニックなので、この辺で失礼します。助六さん、ちばりよー」


「あっ、ちょっと待って。クロールの泳ぎ方で何か知ってることある?」勇気を出して言った。聞くは一時の恥。「泳ぎ……ですか」アメンボはうつむいた。かすかな風がふく。
「あの、助六さん。私達はべつに泳いでるわけじゃないんです」真面目な表情でアメンボはいう。「この足の先は、電子顕微鏡でみると分かりますけど、とても細い毛がたくさん生えてるんです。そこから油を分泌して、水の上に乗ることができてます。だから……」申し訳なさそうに、「泳ぐというより、滑っているといったほうがいいですね。水上のスケーターなんです」


「そうだよね。きいても分からないよね」助六はほほえんだ。それじゃ、いってらっしゃいと言おうとしたら、「あっ、たけしにきいてみましょう。あれ、どこいっちゃったんだ? たけしー」すると、助六の視界にかなり小さいアメンボが入ってきた。「なに、父ちゃん」

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