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独学のLGBTQ考

宇多田ヒカルが「ノンバイナリー」であることをカムアウトした。増え続ける言葉と概念。


以前から感じている「セクシュアリティに関するこの漠然とした違和感はなんだろう?」という問題を解消するべく、私もそろそろ目を背けてはいられないなと感じる。


果たして能動的に調べてみると色々なことが判った。まず基礎知識としての「ジェンダーとセクシュアリティはグラデーションである」という考え方について。


① 身体の性
② 性自認
③ 性的指向
④ 性別表現


の4つで構成され、その組合せによって無数のパターンが存在し(無限ではないはず)、ゲイやレズビアンという分け方すらも些か大雑把すぎる二分法であるということが理解できた。


私は敢えていうならばシスジェンダーのヘテロセクシュアルだと思って今まで生きている。身体が男性として生まれ、男性と自認し、女性のことを好きになる。世の中一般に「黙っていればそれが当たり前だろ」といわれるノンケにもちゃんと名前が付いていることを知ると、全体像がより客観的に把握できるようになった。


なぜシスジェンダーであることや、ヘテロであることはわざわざ「自認」する必要がないのか。そのこと自体がマジョリティ(非マイノリティ)であることの特権であるということも理解した。


これはセクシュアリティに限った話ではない。たとえば左利きなんかも右利きであることが当然とデザインされた世の中で、人によっては生きづらさを感じているだろう。幼い頃に「矯正」された人や、不便を克服するため自ら「両利き」になった人もいる。結果として左利きには器用な人が多いというステレオタイプが生まれるようになったのは、ゲイにはクリエイティブな人が多いと思われている構図とよく似ている。


しかし世の中には不器用な左利きも、クリエイティブじゃないゲイも、面白くない関西人も存在する。ステレオタイプに当てはめて考えることの「無理さ」はこういうことなんやなと思った次第。


これ以上は各自の意識レベルに応じて調べてもらうとして、実はここ最近休みの日に妻と観ていたドラマ『きのう何食べた?』がとにかく面白くて秀逸だった。

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西島秀俊と内野聖陽の同棲カップルが演じる笑って泣けるドラマだ。ここでも初めは理解できなかったグラデーションが、最終話でははっきりと理解できる。西島秀俊はゲイだけれど男性として振る舞うことに拘りがある。内野聖陽は枠に縛られずより自由に振る舞っている。内野の演技が回数を重ねるごとにどんどん板についてきて、ノンケの私にも可愛いとさえ思えてくる。

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秋には映画化もされるそうで楽しみだ。


男と女の二項対立による論争や、そこからの脱構築にもがくことも決して無意味だとは思わないけれど、この作品のように誰にとってもやさしく教えてくれるエンターテインメントの存在を私はより尊いと思う。今ならAmazonプライムで観れます😉

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