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ハクモクレンの家 (6)

走川さんに紹介されたのは、沖縄でユタと呼ばれるような職業の方だったようであったかもしれないが、当時の私はそのような職業のことは知らなかった。私の話を丁寧に聞いてくれたが、その時、私は祝田さんとの面談にお代を請求されるようなことがなかった。彼女が話してくれたことで覚えているのは、彼女が真言宗のお寺でお勤めしていたことと、癌を患っていることだった。走川さんの家でマッサージ中に見えたこれまでみたことの無いような映像が、その後、意識を失った時に見るいくつもの世界で存在している私の未来を写した長編映画のような映像の予兆であったように思う。


私は東京近郊のベットタウンで三姉妹の末っ子として生まれ、上の姉妹と年齢も離れており、近所に同年代の友達もいなかったことから、引っ込み思案で家で静かに過ごすような子供でした。縁側で庭を眺めてぼーっと何時間でもしているようなこともしばしばで、母は私の将来が心配だったろうと思いう。子供ながらに上の姉と比べて活発でない自分を感じとっていたので、多くの子供が感じることがあるように、親に対して申し訳なく思う想いがあった。

幼い頃に住んでいた家は、古い木造の家で、玄関前には高さ8mはあるハクモクレンの大木がある印象的な家でした。裏庭には古い梅の木、桃、栗、さくらんぼ、小さいながらも沢山の樹木があり、この可愛らしい家が私は好きだった。
戦前から使われていた鍵盤が象牙でできている古いピアノが家にあったのだが、そのピアノが置いてある小さな畳の部屋で私は寝ていた。夜寝るまでの時間、布団に横たわったまま薄暗い部屋の天井を眺めていると、頭上にあった押し入れから、直径1m以上もある光る大きな地球のような物体が出てきて、ゆっくりと回転しながら足元に移動して行き、庭の方に消えて行くことが度々あった。おかしいと思って目を凝らしたり、目を擦ってもそれは見え続けており、度々、出て来るその光りの塊は穏やかで、見るだけで私を慰めてくれるもので、そこに在るというだけで安心させてくれるような存在であった。

内向的な幼少期であったが、もの心つく前から歌うことだけは大好きで、小学生の時に情熱的な指導者に出会うことができた。そこで初めて感情を表現するすべを得ることができた。もの静かではあっても感受性は強く、物や植物の気持ちまで拾ってしまうような子供。歌う時はその内に秘めた想いを出すことができる、溜め込んだ物を流すことができることや、周囲が自分を評価してくれる唯一の手段として夢中になって歌に取り組んでいった。

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