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ふたつの時間

先日、息子が読み終えた【二分間の冒険】という本の内容について話してきた。

あらすじを一生懸命に話す姿をみて、内容をこんなに説明できる事に感心しつつ、夢中で読んでいたんだろうなと思った。

教室に学級文庫として置いてある本で、絵本というよりは小説のように文字数も多いので、小学四年生のクラスの友達は読みたがらないと言っていた。

彼は休み時間などを使い、学校で読み終えたらしい。

これまでも、たくさんの本を借りて読んでいたけれど長編を読んだことはなかったので、どんな本か知りたくて、私も読んでみたくなり図書館で借りてみた。

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本を開くと、まずこう書かれてあった ※〈巻末に解説より〉抜粋※

誰もが知っていることですが、時間というものはふたつあります。
柱時計や腕時計のコチコチと告げてくれる時間がひとつ。
もうひとつは、時計でははかれない時間です。
すごく早く進んだり、のろのろとカタツムリのようになかなか進まなかったりします。退屈の授業の時は長く、夢中になって遊んでいる時は〈あっという間にすぎる〉わけです。

確かに誰もが経験したことのある時間の感じ方だと思った。

ふたつの時間。

自分に当てはめて考えた時、まずnoteを始めてまだ1か月程度なのに、

振り返ると、この期間は1か月とは思えない時間だったと思う。

先日、初めて紹介記事にチャレンジしたり、もしも願いが叶うならnoteの人たちと会ってみたいと書いたりもした。そして今noteでの滞在はまだ40日くらいだと気づいた瞬間、そんな短期間?!と驚いた。

だいぶ時間が経過した気がしていて、でかい顔で記事紹介をした自分が恥ずかしい。現に、記事紹介をさせてもらった方は、noteでの経験は私よりも大先輩だったのだ。

時間の経過の速さというか、深さを感じ、とても濃厚な時間を過ごせていたんだと、しみじみ感じた。

最近、新たに知る方の記事を【月別】機能を利用して読みにいく私は気づいたことがあった。昨年の春先に始めた方がなんと多いこと。

まさに自粛中などを機に始めた方が多かったのだなと思った。

noteを始めた方が書かれている記事が、正に私が感じていたようなことを書いていて、note下級生である私が先輩方達と、リンクした感覚が楽しかった。時空を超えた繋がりのような。

何を書いていけばいいのかな、とか、書きたい気持ちと書ける題材が釣り合わないとか書かれてあり、共感しながら読んだ。1年以上前の記事だったりするけれど、今の私には新鮮で、みんなこんな気持ちで書き進めていたんだなあと思えた。

やはり、書かれた記事は、すぐ読まれなくても月日が過ぎても色褪せることなく、いつでも読めるということを実感した。

多くの方がnoteをやっていた時、私は何をしていたか振り返ってみたら、慣れないミシンで布マスク作りに挑戦していた(当時はマスク切れの為、必要に駆られて)。とても不器用な私だが、YouTubeを検索したら丁寧に教えてくれる先生方の頼もしい姿が!。動画なのに所々で停止させられた先生と、にらめっこしてたくさんのマスクを作り上げた。

その時は夢中になり楽しかったけれど、その後しばらくして、ささいな事がきっかけで色々なことが重なった時期に、何も楽しめない苦しい時間を過ごすことになった。

気持ちが憂鬱だと何も楽しめないし、特にやりたいこともなく、時間は長く感じていた。

それでもやめなかったことは、考えることだったと思う。

時間があるからこそ、変に考えることが増え、コロナでの自粛で人との交流もできず、家にいる時間が長い中、無意識のうちに自分を否定してしまうことを加速させてしまったのだろう。

そんな時にnoteを始めていたら、半ば鬱的状態に陥らなかったんじゃないかと思ったけれど、それは違うと思った。

苦しかった時期は、今振り返っても良かったとは決して思わないけれど、その時の感情がなければ、この場所で書くことはしなかったと思う。

基本、SNSでは読むことを楽しんできた。自分で発信して知らない誰かと繋がりたいとか夢にも思わなかった。

でも、その苦しい時間の先に、それを少し通り過ぎた先に、偶然みつけたnoteでの記事募集のツイートを知り、書くことに繋がった。

この苦しくもがいた時期がなければ、初投稿の記事を書ける事はなかった。

そう思うと、1年前のあの時期は私には必要だったんだと思えた。

これまで、足が不自由だけれど、気持ちだけは負けないように、誰のせいでもないのだからと自分を慰め、時には開き直って過ごしてきた。

それが、この年齢になり崩され、自分が自分を攻撃し、苦しみにしか目を向けないと抜け出せなくなるという体験をした。でもそのおかげで精神的に苦しむということが、どういうことなのか分かった。

そしてその1年後の今、noteを書くことで、書いていくことで考えていることが整理され、まさにモヤモヤのようなものを書きだすことで、頭の中からそれらがいなくなり、スッキリした気持ちになれた。

自分に言い聞かせることよりも、ただ書いて、書き出せば良かったんだ。そうすることで不思議と多くのことを考えなくなった。頭の中がシンプルになったような感じだった。

書くこともだけれど、私の場合は他の方の記事を読み、思いを深く知ることで、たくさんの気づきがあったことで気持ちの整理もできたんだと思う。

そして、長い時間をかけて培ってきた思考が、この1ケ月ほどで変わってきた。言葉で表現することが難しいけれど、確かに以前の考える自分との違いを感じる。

ずっと頭にあったモヤのようなものが、スーッと取れて視界がクリアになったのがわかった。

ひとつ言えるとするならば、この短い時間の中でも夢中で真剣に書き、真剣に読むことで、色々なことに向き合い考えてきたと思う。

同じ考えるでも、1年前に考えていた種類とは違って、どのように書こうとか、書いてる記事を自分なりに深く考えてみたりと、そういう考える時間ばかりになった。時には、記事を書いた人のことを考えてみたり。

そんな時間が増えて、誰かの気持ちに寄り添いたいと思える自分を好きだと思えるようにもなった。

さらには、書く楽しみが、他の楽しみにもつながり、やってみたいことも自然と増えた。

音楽を以前にも増して聴くようになった私は久しぶりにピアノを弾いてみたくなったり、歌詞の意味を知りたく英語を勉強しようと思えたり。

やりたいことが増える度に、これを私はやりたかったんだと気付く機会も増えた。

noteに書くことは、書いてつながれるということは、こんなに相乗効果があるんだなと思う。


この二分間の冒険に書かれてある巻末の解説文は、そういった時間について考えるきっかけを与えてくれて、気づかせてくれた。



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