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【母の死】気づいた大切なこと


タイトルから伝わるズーンと重い内容になっております。6000文字越えです。
日々の忙しさにご両親のケアを後回しにされているとしたら是非読んでいただけると嬉しいです。


私たちの肉体

当たり前過ぎて意識するのを忘れてしまいますが、お母さんという母体がないと肉体という地球着を持てないので地球人として生きられません。魂が体験したいことが出来る時代・場所・環境などを細かく検証した上で、その時妊婦さんだった人の元へ降りてくる。
「今回私がやりたいのはこんな人生だから...よし!このお母さんの赤ちゃんに宿ろうっと!」といった具合に肉体選びをしているのだと私は思っています。

この肉体は単品ではなく、”種”と”種を育てる環境”によって出来上がる生き物です。お母さんの体から栄養をもらい適度な大きさに成長し、産道を通過もしくは帝王切開でこの地球の生き物になります。スピリチュアルな視点からですと、魂意識と肉体意識があるそうで肉体意識は先祖7代が輪廻転生していると聞いたことがあります。要は、魂と肉体は別ということですね。これに関してはまだ勉強不足で詳しい説明ができません。未来、自分に落とし込めた際は記事として掲載させていただきます。


母/核となる部分

”過去がどんなであれ、私は母を愛していたんだな…。でも、この愛は本物なのかな…。”

「母」という深いテーマにロックオン。
まだまだ深層心理に眠る何かが残っている状態なので、これからの人生も母にまつわる何かを手放しながら生きていくのだろう。


”2018年12月23日 時刻16:45 母 永眠。”
来年が7回忌になる。3回忌まではバタバタと落ち着かないもんだった。
今はチャネリングで繋がったりできるようになったので、少し前と比べたら近い存在になったと思う。


さて、母の話。
私たちは”お母さん”の体内で育つ約10か月間にがっちりとした絆で結ばれるのかもしれないと母を亡くして気づいた。

私の母は暴言暴力の人。小学生中学生の時の記憶は家に鬼が居る。仮面ではなく本物のはんにゃ顔。とっても恐ろしい人だった。
母を嫌いだけど愛してるって言い方が正解だろう。嫌いなのに好きという葛藤。非常に中途半端な気持ちだが、母が電話の向こうで苦しそうに癌だと伝えて来た時は私も動揺した。

母親と子の絆は、胎児になる前のオタマジャクシの時からこの世界に出てくるまでの期間に、既に太いロープで繋がっていたとしか思えない不思議な感覚だ。母が空母で母から産まれた私たちはヘリコプターや旅客機や戦闘機。
常に着地する場所があり、なんとなく変わらぬ安心がそこにあるから、優雅に飛べていたのではないのかと母の死で気づいた。


負の連鎖/叔母から聞いた母の昔話

※ここからは、私の母についてを綴りますので長い話になる。

子供の頃から両親が経営する小さなお店を手伝い、親の助けとなる道をいつも選択をした母。病気がちな妹や初息子が末っ子にいれば、両親の目は妹弟に奪われるに決まっている。だから母はもっと頑張ったのだろう。けれど、褒められるどころかいつも父に怒られ殴られていたとのこと。子供は親に認めてもらうために頑張ってしまう。こうして、長女で生まれた母は一生我慢をすることを選ぶ思考から脱出せず一生を終えた。
その世代ならではの想い抑圧な環境。まるで奴隷のようだと思ってしまうのは、今の時代だだからなのだろうか?! いやいや、そんな昔の話でもない。実際に祖母のお店は繁盛し、冷蔵庫にはいつも食べ物が溢れていたと叔母が言っていた。なので、物質次元では恵まれている環境だが、ずっと続く負の連鎖が母を、そして私達姉妹を苦しめることになった。



癌/強い母が崩れた

2019年10月後半、母は食道癌が肺・リンパに転移しステージ4と診断された。ステントで食道を開き自然に食事をするか、流動食を流し込むために体に穴を開け化学治療を受けるかの二者択一。化学治療の期待も薄く、ステント導入後も癌が成長してくればまた食道を塞いでしまう。どちらにせよ、胞子をまき散らす大きな癌の巣ができている母が助かる確率はゼロに近かったのだ。食道を開くためのステント導入のため、入院はほんの数日の予定だった。入院の翌日にはステント導入の手術を受け、その後は緊張した気持ちを緩め安らいだ気持ちで体を休める母。翌日もまたその翌日も母は眠り続けた。

「疲れていたんだな...。」私は、こう自分に言い利かした。しかし、気が張っていた時の母とは一変し、みるみるうちに病人になっていった。声もかすれ会話が上手くできない。

”なぜ?病院の処置は正しいの?”

全てがわからないまま時間が過ぎ、何もできないもどかしさと先の予測ができない不安で精神がグラグラしそうになっていた。
分かるのは、癌の餌と呼ばれるブドウ糖の点滴を投与し続けているということ。怖かった。
肩を大きく動かし呼吸をする母。どういった原因だか、片肺気腫になり呼吸器を頼らなければならなってしまい、多動な母は管という制限のある生活に絶望し体を小さく丸め「悔しい…」と声を殺し泣いた。母の姿が苦しかった。母に掛ける言葉はひとつもなく、ただ手を握りしめることしかできなかった。


ズレ/すべてが必然

母には病院の生活は辛いだろうと、自宅診療へ切り替えるために隙間時間に社会福祉協議会へ足を運ぶ。まず介護認定、それからなんとか、その後になんとか。欲しいのは言葉の説明ではなく彼らの行動だった。しかし命より順序が大切なのか前に進す気配すらない。まず、社会福祉協議会の窓口で私たち姉妹を出迎えたのは、いかにも経験値の低そうな若い女性。彼女は私と妹にこう言った。

「お母さんはどれくらいで死にます?」

ただでさえ精神が壊れかけている私たちにキツイ言葉だった。人々のために退職しろ!と普段なら言いたいところだが、そんな人間のことは【母の死】に比べたらどうでもいい。次の段階へ行動を進めてもらえるよう粘ったが相変わらずうんちくばかりで先へ進まない。ここは頼ってる時間がないと介護用品抜きで退院の話を進め、やっとの思いで退院日を決めた。母も私たちも早く家に帰る日が来ないかと待ち望んでの退院日の前夜、母の様態が急変した。

「大至急病院にいらしてください。」看護師の落ち着いた声だった。

ベッドから飛び起き車をすっ飛ばして病院へ向かった。外はとても寒く土砂降りの雨が降っていた深夜だった。
大急ぎで母の病室へ駆けつけると、目を閉じると死んでしまうと言わんばかりに目を見開き天井をギュっと見つめながら呼吸器maxレベルで苦しそうに呼吸を続ける母がいた。自分でも状況が把握できないまま、どんどん人が集まりさぞ怖かっただろう。私達も訳の分からないまま怖い未来を想像し泣いた。

先生が部屋の外で言う。
「今の状態は全力でずっと走り続けているのと同じです。相当苦しいと思います。自然に楽にさせてあげることもできます。考えてお返事ください。」


これは、”眠るように自然に死へ向かうようにできます”という意味だ。
母の寿命を決める?そんな選択できるはずがない。姉妹と話し合い、ここは母に委ねよう!という結論になった。

母が死んでゆく体験でいちばん辛いと感じたのは、どちらが正しいのかわからないけど選択しないければならないということだった。私たちを産んだ母の命がかかっている選択。
イカゲーム(韓国ドラマ)のように失うのは自分の命ならともかく母の命である。生と死を考えるゆとりもないまま、猛スピードで進む状況の中で、まともな選択が出来る人がいるのだろうか...。
宇宙に全てを委ねたいが委ねる前に決めなければならない。力を抜きたいが抜ける場がない。そんな状態の中できたのが、“神様、ベストな道を選択できるようサポートしてください!” と、苦し紛れのお願いを何度も繰り返すことだった。


”生きること”の執着

魂は死なない。だけど肉体は死ぬ。

吸っても吸っても空気が入らない肺や癌に蝕まれた体を抜ければ楽になる。母が望むなら、私達もその望みを叶えるだけに専念できる。しかし、早すぎる展開に誰一人として状況についていけず心の準備をする時間すらない日々、時間軸が崩壊し私の分身があちらこちらで活動をしているような長い長い一日。必死な日々。今振り返ると、それは苦し紛れの生への執着だった。私は、母が言った「悔しい」という言葉から解放される時間が欲しかった。それまで生きてほしいという執着にしがみついていた。

あの急変した夜、母は生きるのではなく死んでゆくと自覚した。それを私に気づかせたのは、峠を越えた直後に発した母の言葉である。母は音にならない小さく擦れた声で言った。


「あんたに謝らないとね。あんなに可愛い子を産むことを反対したこと。産んでくれて良かったぁ。」


”生きること”の執着を手放す

ひとりで子供を育てる決意を持って妊娠を母に告げたとき、「そんなことをするなら、うちの仕切りは跨がせません!」と言い放った母。ところが、毎晩泣きながらひとりで育てる覚悟をした自分と向き合った私は臆することなく、その言葉を受け入れた。更に加わった”母を頼ることは絶対にしない”という自分への誓いのお陰で強くなれたのだ。
話を戻すが、母が心の奥にあった後悔を口にしたとき、11年前に凍結した親子関係が解凍された。この言葉が聞けて私はとても嬉しかった。

そんな感動ドラマがあったものの、母の容態はどんどん急降下していく。母にはすぐに動きだせる筋肉があったが内臓はボロボロだった。少しでも長く生きてほしい。1分でもベッドの横に座ることができるようになればと願った。
眠る母の横で、天使やアメノミノミナカヌシ様や天照大御神やご先祖様などなどとにかくサポーターに向かって「もう少しだけ寿命を伸ばしてほしいと」何度もお願いをしてたとき、「最期は家に帰ろう」という直感が降って来た。


早急に自宅に介護用品を導入した。このときがタイミングなのだろう。母の知人がお世話になっているケアマネジャーに直接話をしていただいたことで、たったの1日で母を迎え入れる準備が整った。訪問看護士も毎日くるよう依頼し、ダスキンから空気清浄機、病院からはレンタル酸素発生機設置。当日は搬送車に横になった状態で自宅へ戻る母を姪が夜中までかかって飾りつけしてくれた部屋と母の大好きな胡蝶蘭が出迎えた。


母の瞳がキラキラと輝いた。大切にしている家、可愛い孫たち、母の気持ちがパッと明るくなり私たちの心も弾んだ。声が出せず会話はできなくても、心が元気になっていることがしっかりと伝わってきた。私たちは、母が一日でも一時間でも一分でも長く生きてくれることを願った。病院という場所は寝て過ごす場所だが、家だと今すぐにでも動き出してしまいそうなくらい、生き生きとした表情を見せてくれた。


そんな穏やかな日々がもう少し続くと思っていた退院から3日目。この日の朝も母はニコニコと笑顔を見せてくれていた。母の食事は点滴だったが、みかんをほんの少し口に入れ「おいしいね」なんて談話といえないほどの会話をした。とても幸せに思えた。


その日の夜は、みんなでクリスマスパーティーを開催する予定だったので、ローストビーフや色とりどりのサラダ、ケーキ。華やかな食卓を演出する食品をデパ地下に買いに行った。
心配もあったが姉に留守を頼み2時間くらい買い物のため母から離れた。妹と私はほんの少しの間、張り詰めた状態から開放されなんとなく自由を味わい帰宅した。母の好きだったバームクーヘンをひとつまみ、好きだったパンをひとつまみ口へ運んで、母には一足先にパーティーを味わってもらった。


夜の宴を待つ時間、母の横に寄り添い観察していると、ガラガラガラガラと母の呼吸音が大きく響き渡る。嫌な感じがした。さっきまでキラキラしていた母の瞳に膜が張っている。まるで鮮度の低い魚のような目でどこを見ているわけでもなく薄っすらと開いている。なぜ急に?!


「お母さん?お母さん?!起きて!お母さん!!」

大きな声で呼んでも、肩をポンポン叩いても全く反応しない。

「お母さん!!! お母さん!!!!」

ガラガラガラガラと大きな音を立て全身を使って苦しそうに呼吸をする母の体、そして呼吸音がピタっと止み部屋がシーーンと静まり返ったあの瞬間。
こちらの体も凍り付いた。
指に付けていた血中酸素飽和濃度計の数字がどんどん下降し脈も打たないことで、肉体の活動が終わりを迎えたことを自覚した。
不思議にも、息を引き取る瞬間は家族みんなが磁石のように引き寄せられベッドを囲んでいる中母は息絶えたのだった。

急にピタリと呼吸音が止み、静けさを取り戻した部屋はまるで別次元にでもワープしたようなとても不思議な感覚だった。今の今まで動いていた体がピクリとも動かなくなる。きっと場所が病院なら、色んな機材や先生と看護師が母を囲み、もっと派手に死について認める儀式があったのだろう。しかし、自宅では本当に静かに動きが停止しただけで、使えなくなった体から魂がすぅーっと抜けたとうイメージがしっくりくる。これが自然な死に方なんだと知った。

癌に蝕まれたボロボロ地球服(肉体)を脱ぎ魂存在になったということは、声掛けは天井か?!
きっと、自分が脱ぎ捨てた地球服と私たちをどこかで見ているのだろうと思い、もう一度戻ってきてくれないだろうか?と声を掛けてみた。
残念ながらもう戻る気はないらしいとわかったので、こちらも気持ちを切り替え事務的作業に取り掛かった。悲しみきれないとはこのことを言うのだろう。

今を生きる 

75歳の誕生日を迎えてから1か月。予想外のスピードで展開した母の死。母も悔やみきれないこともたくさんあっただろう。ただ、出来事に悲しみの感情を乗せたストーリーから離れ俯瞰してみると、母がすべてを受け入れた瞬間に肉体から抜けたのだろうと思えてくる。

時系列がぶっ壊れ自分の分身があちこちで行動したように思えたあの期間、気持ちを緩めることができなかったあの期間、どんなことであれ全てがベストだったということだ。
社会福祉協議会の若い女性の不快な出来事も上手く進まなかったことも、母の急変、一日で準備が整い退院までできたことも自宅で永遠の眠りについたことも全て必然。微塵の狂いもないベストなタイミング。
何もかもが人生の学びの一つであり、失敗だとすれば次の成功の為にあること。死については必ずと言って後悔はついてくるだろう。なぜなら完璧はないからだ。

それよりもなによりも、私も息子の母であり猫の母でもある。頑張ろう!息子との大切な時間をしっかりと生きよう!いつも新しい気持ちで今を生きようと改めて気合いを入れた。

最後に

母は呼べはいつでも近くに来てくれる。肉体がないほうが柔軟に動けるようだ。父のことで疲れたとき、母を呼び話を聞いてもらっている。
ただ、この時期。苦しんでいた母や美味しかった手料理や笑顔を思い出し泣きたくなる。

母の死/まとめ


◎ お酒多量摂取&喫煙者は、食道や咽頭癌の検査を受けよう。
◎ 先生も看護師も、ほぼほぼ自分の死と向き合った経験がない。
死んでいく経験がないが故、プロの顔をして強く言い切るがそれが正しいとは限らない。大切なことは自分が知りたいことを納得できるまで質問するが良い。自分発信がベスト!
◎ 後悔先に立たずと言うが後悔なんてどうってことない。生きていれば気持ちは回復する。それより大切なのは、今できることに焦点を当てること。
◎ 余命が短ければ短いほど、力を抜く努力、生にこだわるより、死に方をこだわり、少ない余命をしっかりと心地良く過ごすことだけに意識を向けることが、幸せエネルギーを放ち幸せ度が上がる。
お母さんに「ありがとう」と言おう。


仕事に子育てと多忙な日々を過ごしている私たちだが、母親を想う気持ちを蔑ろにせず、思い出した瞬間に連絡を取るなどの時間を導入してほしい。
母としてではなく一人の人間として話すると、自分の知らない新たな側面を発見したり、自分の心のブロックにリンクしていることだったりが見つけやすくなる。出来るときに多くを語り、出来る限り「ありがとう」と伝えてほしい。



最後まで読んでいただきましてありがとうございました。

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