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人を分断せず,ふわっとぐちゃっとを許容し合いたい。

自分の幼少期から心理検査に関わるまでと,現状の心理検査の限界,そして理想の社会についての,個人的なお話です。

私は,自分を説明するの苦手です。

ふわっとぐちゃっとしていて,それでいて,常に変わり続ける自分。昔から,自分を捉えるのが苦手でした。

幼少期は,自分の周囲に個性の強い不思議な人たちが多くいました。
誰にでも明るく親しく接することができる人,相手がイヤがることばかりしてくる人,斜に構えて文句ばかりの人,気は優しいのに下品な人,ある日突然キャラが変わった人,お酒を飲むと乱暴になる大人,働かずにパチンコという遊びばかりする大人,身内の金銭要求に文句を言いながら支援し続ける大人・・・。
なぜ彼らはああなのか。彼らへの不思議さから,人間全体への興味へと発展していきました。

高校生のとき,性格や性格検査の研究をしているゼミがある大学を見つけました。ふわっとした概念である性格を,指標化して捉えられるようにするという性格検査に,強く惹かれました。
地元から遠すぎない(ほどほどの引っ越し代で済む),国公立大(授業料免除制度がある)という経済的要素も大きく関係し,そこ1本を目指して不器用なりにがんばって,入学切符を獲得しました。

なお,大学受験に関してはE判定からの逆転劇というドラマがあり,当初合格は絶対無理だと言っていた先生が「合格したらなんでも言うことを聞いてやる」と約束してくれたので,デート(※健全スタイル)というご褒美をいただいた甘酸っぱいエピソードを書き添えておきます。

そして,そのゼミと,そのあとご縁あって会社員時代も入れて,約20年間,楽しく心理検査に関わりました。

そういえば大学の卒業論文は,「自己複雑性の測定法に関する一考察 —TSTを用いて—」というものでした。これもエピソードはたくさんありますが,甘くない,全体としてサワーでビターで苦しい思い出です。「人の複雑性を測りたい」という至極当然な思いで進んでいたら,エントロピーという,大変やっかいなものに突き当たり,・・・大変でした。ベースはE判定の人間ですから。文系ですから。でも体当たりで進んだ当時の私をほめてあげたいです。

心理検査は,捉えどころのなかった人のある状態を,指標化・数値化できます。分からなかったものが分かるようになります。そのあとの具体的な支援法を考える助けにもなります。そして例えば児童を測る場合,子ども本人だけでなく,家族や,教師や,周辺の支援者など,一度にたくさんの人のお役に立てます。なんと素敵なツールでしょう。

しかし,心理検査の使われ方を見続ける中で,だんだんと心理検査に対して,心にヒリっと痛みを感じることも増えてきました。

私に限らず多くの人は,ふわっとぐちゃっとして,それでいて常に変わり続けます。検査はその人の,ある時のある一面を測ります。
指標化することで分かりやすくなり,役立ちますが,分かりやすい分,その部分のみにフォーカスされやすくなります。

それは,英語でいう「specific」な部分です。明確で,具体的で,特定の部分です。

人のspecificな面を扱う世界でい続けた結果,今度は,「全体としてのその人」「その人丸ごと」を見ることの重要性も感じ始めました。

「ふわっとぐちゃっとして,変わり続ける,そのすべて」を見ること
それは捉えにくく,不便さや大変さもありますが,究極的には,捉えきれなくてもよいと思えること,また,そのあるがままを受け入れ合えること,そして,そういう社会であることが重要ではないでしょうか。

私たちは,そういう社会を目指していくべきに感じ始めています。

もし,何らかの目的で測定する必要性がある場合は,現状よりももっと高度で複雑な測定であるべきに思っています。
少なくとも,古典的テスト理論と呼ばれる古典的な方法,標準化された1つの物さしと比較するようなスタイルではなく。ビッグデータでの多層的多面的な分析など,ふわっとぐちゃっとして変わり続ける人の,その全体に近いものを測ることを目指すべきに思っています。

人は複雑です。
人は多様です。
その前提で,人を受け入れ合う社会でありたいです。

そして,相変わらず私は自分を説明するのが苦手です。

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