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人を肩書きや地位で捉えず,対等に見ることで魂で繋がれる.

Tomokiです.最近は自炊をよくするようになった.お店で売ってるお惣菜や出来合いのものを食べていると,定期的に自分が作ったご飯が食べたくなる.そして,なによりも料理をすること自体がとても楽しい.そんなわけで料理がすっかり一つの趣味みたいになってきた.栄養バランスも良く健康的で良い.

最近はこんな感じで日常の中にささやかな幸せを見つけては,1日をうまく楽しむことが上手くなってきたようだ.劇的なシンデレラストーリーなんて特になくとも,毎日を鮮やかに飾り付けすることができるようだ.

そうやって日常を謳歌しているうちに,ふと自分が居心地を悪く感じる時と,そうでない時の差がわかってきた.何かに怯えていたり,警戒をしているときほど自然体ではなく,何か取り繕っているような,ありもしない罪への罪悪感に苛まれているような後ろめたい反応を示すことが多かった.その不安な感情そのものは,周りの人や接する人の肩書きだったり,地位や立場に対して僕が苦手意識や投影を持っていたからだと気づいたので今日はそんな話.

肩書きでその人と接するせいで人見知りする.

肩書きだったり年齢だったり性別だったり社会的立ち位置だったりでその人を見てしまうと,それらのステレオタイプに強く引っ張られてしまう.そのせいで必要以上に萎縮してしまったりすることも多い.僕自身が若造なので歳上の人と接することがあると失礼がないか気になってしまう.その人と対面している場所がたとえば少し高級なお店だったりすると,こういった言動は果たして大丈夫なのだろうかと考えるうちに,しどろもどろになったり,辿々しい態度になってしまったりする.

しかし,それは実はその人自身を見ているようで,全く見ていないことに気づいたのだ.それは単にその人のわかりやすいプロフィール情報から,その人へのレッテルを貼ってしまって,自分が勝手に作り出した人物像にただ怯えていただけに過ぎなかったのだ.それは例えば自分よりも高学歴な人と話すときに自分が無学に思えて劣等感を勝手に抱えこんでしまったり,自分よりも専門性が高いと,自分のレベルを見透かされていると思われて怖くなってしまっていた.自分自身は別になんの悪いこともしていないというのにだ.

そしてそれは無意識に上下関係を作ってしまっていたようだ.自分より価値ある人間を認めてしまって,その人の時間を奪うことに対しての後ろめたさを勝手に感じたりして変に罪意識を積み重ねては居心地の悪い場を自分から作り出していることに気づいた.

そしてそれは自分より目上の人に限らない.たとえば年下や子供と接したときに自分がどう見られるか心配になることが多かった.変に奇抜な服や髪色をしているせいで,「もしかしたら怖がらせてしまうのではないか?」とか,「警戒されているのではないか?」と思って,むしろ自分から警戒してしまうことが多かった.これは完全に僕の勝手な投影だ.そして,子供と接することが少し苦手に思えてしまっていた.しかし,僕自身は子供が嫌いではなく,むしろ好きな方だった.好きだからこそ「変なやつ」と思われたくなくて避けるようになってしまっていたのだ.これは完全に自分が望んでいる関係性と逆の関係性だ.それを自分から作り出してしまっていることに気づいた.

そういったことも仲良くなった人には全く起きないことに気づいた.年下と話すのが苦手だと思っていた自分にも,探してみれば仲の良い人に年下はいるし,異性と話すのが苦手だと思っていたときも,気がつけば知り合いには異性も同性と同じくらい居たりする.そして,その人が「異性なのか」「年下なのか」なんて全く意識していなかった自分に気づいた.つまりそれは初対面の周りの人をその人として見ず,子供だとか女性だとか目上だとかのステレオタイプでしか,その人を見ていないせいで起きていることに気づいた.

必要以上に畏ったり,壁をつくったりせず,フラットに接することが人に対する恐れを減らす

自分自身威張ったり大柄にすることはもちろんないが,たとえば大きく年齢が離れていると勝手に自分で世代の壁を作ってしまうようだ.何歳も歳上の自分が年下の人たちと接するのはどうなのだろうか?などと勝手に考えてしまったりする.僕はもともと兄弟の末っ子として育ったので,歳上よりも歳下にそういった懸念を抱くことが多いようだ.あまり慣れ慣れしく話しかけたりして迷惑だったりしないだろうか?などと勝手に考えて壁を作り出してしまう.

一方で歳上だったり,自分よりも社会的地位が高かったり,自分よりも優れていると思った人に対して,引け目を感じることが多かった.これは自分に対する罪悪感や劣等感が原因だったようだ.過去の記事で書いたように,競争と戦いの世界をやめて誰かを敵視することをやめたことや,誰かに対する特別性を捨てることでかなり解消されてきた.

会社組織だったり,何かしらのコミュニティで初対面の誰かと接しにくさを感じることもあるだろう.しかし,それらは実は相手が何か自分に思っていたわけでもなんでもなく,自分自身が勝手に作り出してしまった恐怖心を相手に投影してしまって,そのせいで自分が接しにくさを作ってしまい,それが実際に気まずい空気をつくってしまい,うまくいかなかっただけなのかもしれない.

そして,それは自分が相手に抱いていた特別性や,何かしらの肩書きに対するステレオタイプに引っ張られていただけなのかもしれない.そして,それらによって自分を防衛する必要性が生まれたときに起こっていた現象かもしれない.

それは満員電車に乗る時,男性が女性近くにいると痴漢冤罪への恐怖を感じて,少し萎縮したり警戒してしまうことに似ている.僕自身電車によく乗っていた学生時代は勘違いされないように両手をあげないとだとか警戒することが多かった.

同じような警戒心を普段から,目上の人だったり,あるいは子供にだったり,様々な肩書きやステレオタイプに対して出したときに,その警戒心は相手へと伝わってしまい,結局居心地の悪い空間を自ら作り出してしまっていたということに気づいたのだ.

もちろん,自分を嫌ったり,見下してきたり,認めない人や,嫌悪してくる人はいるかもしれない.しかし,それはステレオタイプに関係のない,その人の性格や趣向に過ぎない.それをそのステレオタイプ全体へのイメージとして持ってしまうのは健全ではない.

そしてステレオタイプや社会的地位は,人としての優劣をつけるものではない.単なる役割の違いに過ぎないのだから,どんな相手に対してでもフラットであるべきだ.変な遠慮や警戒心や劣等感を持たず,一方で傲慢さや尊大さも持たず,同じ社会に生きる人間として一定のリスペクトを持って誰に対しても接することが最も人と人との関係を円滑で気持ちよくするのだと思っている.それが最も素敵で美しい人柄なんじゃないかと思うようになった.

そうして,誰に対しても一定の尊敬を持ちつつフラットに接することができたとき,僕らは軽やかに人と繋がれる.助けを求めることにも,手を差し伸べることにも,変な遠慮などなく,気持ちよく共生することができるはずだ.きっとそれが魂から繋がれるということだ.そんな関係性の方がきっと素敵で美しいと僕は思う.

人に助けを求めたり,相談を持ちかけたり,協力をお願いすることに僕らはつい遠慮をしてしまう.しかし,自分が実際に助けを求められたり,相談や協力をお願いされたらどうだろう?大抵は気持ちよく手を差し伸べるはずだ.特に自分の得意分野で他者へ貢献できることは最上の喜びだし,自分の専門性で協力を求められて共に何かを創りあげることにワクワクするはずだ.自分がそう思うなら,相手だっていきなり煙たがることはないだろう.

そうやってひとつひとつの特別性や投影をなくしていくことが,人と人が繋がって共に紡ぐ未来を,もっと豊かで美しくすることができると思う.そのために僕はこの不要な警戒心や恐れをなくすことを選ぼうと思う.

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