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罪悪感や劣等感に苛まれない為に,誰かを敵視するのを辞めた

Tomokiです.とても暑い日が続いていたと思ったら,最近は曇り空が増えて以前よりは過ごしやすくなった.恋しかった雨にも恵まれた.厳しい暑さから心地良い気候に少しだけなった.

先日,夜に外出するとおそらく野良であろう仔猫に懐かれた.なぜ仔猫がいるのか,あるいは身体が小さいだけで成猫なのかわからないけれども,とにかく確かなことはとても癒された出来事だったということだ.足下にすり寄ってきたかと思えば,虫が気になってあちこちに移動して,たまに思い出したかのように足下に戻る姿につい夢中になってしまった.

最近の僕の日常はすごく落ち着いていて長閑だ.何かに焦ったり,罪の意識を感じたり,他の誰かと比較するようなことはほとんどなくなった.見栄を張るようなことや,自分の何かしらの実力を衒らかしたりすることもなくなった.ただ自分の興味のある事へ一直線へと進むようになった.僕の日常はとても平穏になっている.しかし,それは夢だったり目標を犠牲にしたわけじゃない.僕は今でも自分の行きたい場所にまっすぐ進んでいる実感がある.魂から湧き上がる強い望みなら,そこにたどり着くのに,色んな葛藤や感情の渦なんて必要なかったのだと気づいたので今日はそんな話.

豊かな世界を目指す過程には戦う必要なんてない

まず,平穏や長閑だからと言って,それは進歩を辞めたわけではない.たとえば,夢を諦めて現状維持の日常へと埋没していったわけでも,ましてや腐っていったわけでは決してない.どちらかと言えば,以前よりも僕は向上心に溢れるようになった気がする.ただ色々なことが知りたい,色々な物を創ってみたいという欲求に駆られるまま,そこに余計な感情が割り込むことなくなった結果,ストレートに物事が進めるようになった.結果的には以前の焦りだったり,劣等感に苛まれながら,それをなんとかバネにして努力しようと躍起になっていた頃よりも,進みは早いし,バテることも少なくなった.「やらねば,やらねば.」と思う程に自分の歩を遅めていたなんて,なんて皮肉な話だったのだろうか.

結局,誰かとの競争だったり,優劣の比較なんて必要なかったのかもしれない.少なくとも僕にはそういったことは大抵ストレスの根源にしかなっていなかった.それよりか,色々な人の知識や技術が集結して生まれる新しいものを見ることに喜びを覚えるタイプだった.

そもそも僕らの価値の本質は競争ではなかったはずだ.豊かさとは選択肢の数のことを言っている.それは誰かにとっては取るにも足らないつまらない物だが,誰かにとっては掛け替えのない宝物になる.そうした多様性溢れる世界では奪い合う必要なんてない.なぜなら人によって大切なものがひとつひとつ異なるからだ.そうやって多種多様な価値観を作り上げていくことが,僕ら全員が幸せになれる方法だ.だからこそ,僕らは創造力を持って生まれたのだと思う.

しかし,気が付いたら僕らは誰かと競い合って負かすことが世界の本質だと誤認識するようになってしまった.そうやって誰かを蹴落とそうと躍起になるようになってしまった.なぜか修羅の道へと僕らは歩んでしまっていたようだ.

戦いが世界の本質だと考えると全員が敵になる

そうやって戦いの思考を続けていると,だんだんと周りの人々が敵に見えてしまう幻覚に襲われる.同じチームのメンバーでさえ,何かで競い合ってる相手のように思えてしまう.それは例えば受験生ならば,成績の善し悪しで推薦枠を奪い合ったり,仕事ならば人事評価などによる昇進枠の奪い合ったりしてしまうようなものだ.限りある枠と,それによる順位付けによって自らを戦いへと導いてしまう.そして,自分がいつ蹴落とされる立場になるか恐怖し始めてしまう.しまいには,相手との協力関係を拒んだり,自分の知見や情報を出し惜しみし始めてしまう.それは相手を敵視してしまっているのだから当然だ.敵に塩を送ろうなんて思わなくなってしまうからだ.

周り全てを敵視してしまう世界に平穏など訪れることはない.休まることのない戦いを続けてしまう.それはいつ自分に襲いかかってくるかわからない得体の知れない恐怖に常に追い回されてるような感覚だ.最初のうちは大丈夫でも,その怪物は着実に僕らの心身を蝕んでいってしまう.

僕はそんな争いに塗れた世界に生きていくことが辛くて,戦いから降りることにした.そして,自分を戦いの土俵に引き込む人たちを避けたり,抵抗するようになった.それは僕の平穏を脅かす対象でしかないと思ったからだ.しかし,この思考は実はまだ僕が戦いの土俵から完全に降りていないことを意味していることに気がついた.

自分の平穏を脅かす人を認めて,その考えを否定することは,その人を自分の敵と見做すことだ

僕は自分が意図せずに競争や戦いの場所に引き込まれないように深く警戒するようになった.それは誰かの恐怖を煽るような言動だったり,挑発によって,半ばヒステリックな気持ちで誰かを敵にしたり,存在するかもわからない敵に怯える日々を作りだしてしまうからだ.だから,そういった煽るような言動をする人や,強い言葉を使う人を嫌悪したり,嫌ったり,カテゴリー分けして積極的に関わらないようにしてきた.そして,たまたま関わってしまった時には,常に脅威に考えてビクビク怯えながらも自分を守ろうとしていた.

しかし,それらは平穏を望んでいるようで,全く平穏にはなっていなかった.世界に自分を深く傷つけて平穏を奪うような脅威を認めた瞬間,僕は常に自分を守らないといけないという恐怖の世界へと陥れてしまったんだ.いつ攻められるかわからない.いつ自分を地獄の底へ叩き落とすかわからない脅威があると思った結果,結局僕は周りを敵視するようになってしまった.

この世界に敵がいると認めたならば,それはつまり戦いが存在することを認めてしまうことになる.そして,攻められる脅威を認めた瞬間に,戦わざるを得ない瞬間があることを認めてしまったのだ.それは自分が平穏を望んでおきながら,平穏な日常など存在しないと自ら認めてしまったことを意味していた.全くの自己矛盾だった.

そしてそれは僕が望む愛溢れる世界をも,存在しないと自ら認めてしまう行為だったことに気づいた.自分を脅かす脅威があるならば,愛という存在はいともたやすく失ってしまえるような安っぽいものであると認めてしまう行為だ.それは自分が強く望んで信じていたはずのものを,自ら否定してしまっている.

その瞬間から,自分が誰かを敵視することを戒めて,そして自分の平穏を脅かす脅威があるという認識を改めることにした.他の誰かの意見はその人自身の意見に過ぎない.自分がその意見に従う必要はどこにもない.一方で,その人の意見を自分が否定する必要もない.その人の意見を否定しなければ,その意見に従わなければいけないわけではない.色々な考えがあることを認めて尊重すること.それと同じように自分の考えを認めてあげることが重要だったんだ.

そうやって自分を含める全ての人の意見や考えを尊重するようになったことで,僕は誰かの意見に囚われることもなくなった.それは単に考え方や視点や見方の違いに過ぎないからだ.そこに正しいも間違っているも存在はしない.そして,それは僕から罪悪感や焦燥感が生まれることもなくなった.なぜならば,その罪悪感や焦燥感は誰かの思考に影響されて出てきた,自分への不信感に過ぎないからだ.

思い描く世界を創るために,まず自分の行動を変えた

僕は自分が純粋な愛情で繋がる世界を志していながら,自分が愛に欠けた行動をとっていたことに気づいた.それは誰かを敵視したり,その誰かに脅かされる事を脅威を認めてしまった事だ.脅威がある事を認めてしまったのなら,それはこの世界が愛であることを否定してしまっていることになる.

同じように仲間外れを作ったり,誰かを分類分けしてしまって,例外を作ってしまったことも僕の信条からはズレた事をしていた.包括的でなければ意味がない.

なぜならば,例外を認めてしまえば,たちまち僕らは恐怖心を抱いてしまう.特別な才能の持ち主を認めてしまえば,自分の才能を疑って劣等感を抱えてしまう.逆に自分よりも劣る存在を認めてしまえば,間接的に自分より優れた存在を認めてしまうことになる.そしてそれは上下関係がある事を認めてしまい,結局競争や争いの世界を認めてしまうことになる.

本当に自らが愛で繋がる豊かな世界を願っているならば,まず自分がその存在を強く信じて,自分の行動から変えることが必要不可欠だ.自分が望む幸せな世界を自分自ら行うことに努力なんて必要ないはずだ.なぜならば,それが自分の魂から望むことで,幸せだと自分で気づいているのならば,その行動変容はストレートに自分を幸せへと導く道であるはずだからだ.

そして,道半ばながらそれは正しかったようだ.僕は誰かを敵視することをやめることで,自らの平穏を取り戻して,長閑ながら喜びに溢れた創造性に満ちた毎日を取り戻すことができているからだ.

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