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言葉は伝わらないからこそ意味がある

ただ仲良くしようとしただけなのに、

交通事故に逢ったみたいに、

心無い言葉にふと傷つけられることがある。



その時は大丈夫なふりをして、出来るだけ大人でいたいと思っても

後から毒針みたいにじわじわと効いてきて頭から離れない。



身体はどこも傷つけられていないのに、

カウンターパンチを食らったかのように、お腹に衝撃が走る。



本当は何もなくなっていないのに、

全てが崩れ去ったみたいに不安になって涙がでる。





全ては変わっていくものなのに、それが永遠に続くように思え、

本当は存在しないものが、世界の常識のように感じる。




言葉って何なのだろう?
傷つくくらいなら無かったらいいのに。



刃にもなるし、救いにもなる。なんてやっかいなやつ。




それでも私達は言葉を発するし、それを受け取る耳を持っている。



昔貰った大切な人からの言葉を考えるだけで、暖かくなる”こころ”がある。





ありがとう。

ありのままで。

あいしてる。




言葉にできないことがほとんどかもしれない。

言い切れない想いばかりかもしれない。





それでも今日も出来るだけ、

伝えようとして、つながろうとしよう。

その儚い試みが、言葉を”言葉を超えた存在”にすると思うから。






・言葉は曖昧で、言葉があるからこそ幻想が生まれたりすると思う。誰かの言葉が自分を傷つけたとき、それがずっと続くように感じてしまう。本当は言われたことが”真実”ではないのに、それがあたかも”唯一の真実”かのように感じてしまう。

「わたしって失礼な人なのかな?」「変わらなきゃいけない存在なのかな?」

「あの人は悪い人だ」「あの人のことは嫌いだなあ」

なんてね。

でも実際は全てが流れて行っているだけ。この今の瞬間が続いているだけ。


相手だって、その時は敵でも、味方のときもある。

相手からみたら、悪も正義。

いい悪い、正しい正しくないは、本当は存在していない。


それなのに、こんなに言葉に惑わされるんなら、そんなものなかったらいいのにと思ったこともある。


でも、なぜか人間は言葉を使うようになっている。


人とコミュニケーションするため、協力するため、村を作るため、生存するため、個として存在するもの同士が、つながるための道具。


それもそうだと思う。


でも、人間が言葉を使う理由は、いま本当はもっともっと違う場所にあるんじゃないかなと最近は思う。それは友人と話していて感じたのかもしれないし、自然の中で暮らすことが何かを感じさせたのかもしれないけど、


言葉では表せない感覚があること、いくら言葉を尽くしても伝わらない思いがあることを「知る」ために、言葉があるのではないかなと思うのです。



伝わらないことが前提。わからないことが前提。



生まれた理由、この世界の成り立ち、今の自分の存在、他の誰かが感じていること。


そんなわからないことを、少しでも分かろうとして、言葉を尽くす。


それでも、やっぱりわからないという実感。伝えきれないということを知る瞬間。それでも分かり合おうとするとき、繋がり合おうとするその瞬間こそが、言葉をこえた”つながり”みたいなもので、人間らしく心安らぐ時間になるんじゃないかと思うのです。


そういうあったかい瞬間のために言葉があるのかもしれないです。













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