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外面人間から脱すること

大学生の頃、私は外面人間だった。

中高をスクールカーストの強い学校で過ごした結果、うまく立ち振るまうひとはみんな外面で生きているんだと思っていた。

影響力の大きなひとの前では好かれるように振るまうし、そんなに重要でないひとの前ではそれなりに振るまう。

カーストの下のほうにいた私は、約束だと思っていたことが約束ではなかった出来事に何度も出くわしたし、外面とうわべで感じよく振るまう力も必要なのだと勘違いをしていた。

結果、大学生の頃には中身の努力というよりも「いかに外面を使って良いひとのように見せるか?」とか、「どうすれば少ないコミュニケーションでも好かれるのか?」ということを気にする人間になっていた。

なんでみんな、外面を取り繕わないんだろう? という勘違い


大学生の私は、生徒会のようなものに所属していた。

高校生の頃と比べてひとの目にさらされることが増えたので、その生徒会の肩書きがつくような場では特にじぶんの見られかたに気を配っていた。

そして、お節介にも「なんであのひとはじぶんの見られかたを気にしないのだろう?」とも思っていた

外面を良くすれば、じぶんにも組織にも良い影響があるのに。なんとかしてくれないかな。といったことを考えていた。

社会人になった私。外面だけではなにも変わらない。


社会人になり、営業職に就いた私。

営業職こそ、外面を取り繕って一瞬で好かれることが必要! と思っていたけど、もちろんそんな安易な考えでモノが売れるわけがない。売れたとしても一瞬だけで、実績が続かない。

営業職として試行錯誤をする中で気づいたのは、ひとは相手のひととなりや本音を見たいと思っているということ。多少スキルが劣っていても、振るまいがそんなに丁寧ではなくても、人間らしくてひと懐っこいひとには自然と惹かれる。

私は、まったく逆の努力をしていたんだなと気づいた。もちろん、外面の私を見て仲良くなってくれる方もいたけど、ひとは本質的には外面を求めていない。ひととなりを見たいのだと、何年もかけてやっと気づいた。

見せ方だけでなく、中身も伴った人間であること


とはいえ、社会人は見せ方の技術も必要。だけど、中身を伴わせる必要がある。中と外にギャップが大きいと、ミスマッチを起こしてしまって双方にデメリットがある。

そう気づいたので、私はいま中身を磨くことと、中身と見られかたのギャップを減らすことを大事にしている軸があってやさしいひとであることが私の目指す姿。外面だけを取り繕うのではなく、中身からなりたい姿になって、外面人間から脱却していきたい。

7年半勤めた会社を30歳で辞め、好きな場所に住んで好きな仕事をする人生を作り直すと決めました。サポートいただいたお金は、退職後にお仕事にしているコーチングのスキル向上や、noteを書き続けるための生活に使用します🙇🏻これからも記事を通してみなさんと繋がれたら嬉しいです☺️