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虹のいろの数

今日は後期最後の、1年生のゼミの授業の日。

1年生の研究発表は、各自今回がはじめてとなる。これから2年生になったら本格的に研究してもらうのだけど、まずは何ごとにも最初の一歩というものがある。

私のゼミでの最初の一歩は、自分で決めた研究テーマに関連する文献を1冊選び、その内容を要約してくるというものだ。知的関心に沿って選んだ文献でも、読んでみるとたいてい「思ってたんと違う」とか「この章のこの部分が気になった」とかいろいろ思うことが出てくる。これはいわば、リトマス試験紙だ。だから、ピンとくる研究テーマを定められている子でも、そうなない子でも、まずはとにかく何かインプットする必要があると私は思っている。それで、最初の一歩の文献1冊。

私のクラスは政治学・政策学専攻だけれど、今日の発表者は、政治学にも政策学にもあまり関心がない子で、どんなものを持ってくるのだろうと期待と不安で待っていたら、『ピダハンー言語本能を超える文化と世界観』という本から発表してくれた。

なんだこれ、いいじゃないか。

私は知らない本だったけれど、提出された発表レジュメを見て心踊った。

ピダハン族と呼ばれる人々は、アマゾン川流域の少数民族で、彼らの用いるピダハン語はソシュールもびっくり言語学の常識破りな言語らしい。すなわち、数の概念がない、男女の別の概念がない、明暗以外の色の概念がない、過去・現在・未来の時制の概念がない、自己と他者の境界がない、心配の概念がない、だからみんな心配することがないから幸福だ。どうも、そんな話らしいのだ。

授業の前日に学生からメールで送信された発表レジュメを読んですぐ、「あ、これ私専門外だ」と悟ったので、仲のいい言語文化専攻の先生に、「言語学にも文化人類学にもいけそうなテーマを持ってきた子がいるんだけど、どういうアドバイスができるかな?」と相談してみた。

その先生はピダハン族のことは知らなかったけれど、ピダハン語の特色を聞いて「それはね、文脈あるよ」と瞬時に教えてくれた。さすがである。

言語学の分野では、言語が話者の世界認識の形成に影響しているという理論のことを、サピア=ウォーフの仮説というらしい。サピア=ウォーフの仮説。反芻しながらメモをする。

例えば、私たち日本人は虹を7色だと捉える。赤、だいだい、黄色、緑、青、藍、紫。フランス語も日本語と一緒。だけど、英語圏では赤、だいだい、黄色、緑、青、紫の6色になる。ドイツ語圏ではさらに少なく、5色だという。反対に、アフリカのどこかでは黄緑を加えた8色で虹を認識する言語族もいれば、2色という大胆不敵な民族もいるという。

生徒の一人からは、「それって、ドイツでは実際に5色の虹がかかっているということですか?」といういい質問が出たけれど、もちろんそうではない。

日本の虹が7色でドイツの虹が5色なのではなく、日本語使用者が虹を7色でみており、ドイツ語使用者は5色でみているという話だ。虹のグラデーションをどこで分割するかは、言語により規定されるということだと思う。

と、そう答えたら、「へー!!」という教えがいのあるリアクションをしてくれた。

サピア=ウォーフの仮説から考えると、ピダハン語は、ピダハン族の人たちの世界観をかなりユニークなものとしている。彼らには世界はいったいどのように見えているのだろうか。

かつてカントは、「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う」といった。サピア=ウォーフの仮説は、まさにカントの認識論におけるコペルニクス的転回なように思われる。

サピア=ウォーフの仮説について、私はまだ言語学の入門教科書を休み時間に慌てて目を通しただけだから、もしかしたら違うこと言ってるかも。でも、概ねこんな話なのだと思う。

言語が私たちの世界の認識様式を規定するという話は、本当にそうだと思う。新居が片付いたら、私も『ピダハンー言語本能を超える文化と世界観』を買って読んでみよう。それから、サピア=ウォーフ仮説についても勉強してみよう🌈


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