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歓びの声、祈りの声

伝統芸能好きにとって、関西地方はお楽しみの宝庫だ。一年中通してさまざまな場所で祭りや寺社行事などが行われ、それにともなう芸能を観ることができる。私は特にお正月が好きだ。あちこちの神社で、新年を祝う能の〈翁〉の奉納が観られるからだ。京都近郊だと、元旦に日吉大社、同じく元旦に平安神宮、3日に八坂神社で〈翁〉の奉納がある。今年は初めて、日吉大社の〈翁〉を観に行った。早朝3時に起きてレンタカーをピックアップし、比叡山の麓へ向かう。今年のお正月は幸いそれほど冷え込みが厳しくなかったので、雪も降らず助かった。
  
日吉大社は古事記にもその名が見える由緒ある神社で、かつては比叡山の山頂にあったらしい。延暦寺とも関係が深い。ここで毎年元旦に「大戸開き神事」というものが行われる。
神事は早朝まだ暗い時間から始まる。松明が灯され、神職方と能役者が入ってくる。神職が「オー」というような声を上げる。すると、「ギィー」という音が聞こえる。暗くて何をしているのかは見えないのだが、その音で、神殿の戸が開いたのだとわかる。そしてしばらく祝詞が唱えられた後、能役者による〈翁〉が始まる。
この〈翁〉は「一人翁」と呼ばれ、特別なかたちで演じられる。通常の〈翁〉は、翁・千歳(せんざい)・三番叟(さんばそう)という3人の登場人物と、鼓・笛のお囃子がある。しかし「一人翁」は大夫がたった一人(地謡方数人を伴うのみ)で舞う。
 
そもそも〈翁〉とはどんな演目か。
「能にして能にあらず」といわれるように、他の能とはまったく性質が違う、というか、厳密には能ではない。古くは翁猿楽と呼ばれ、専属の翁役者がいたが、観阿弥・世阿弥の頃から能役者が勤めるようになった。今でも〈翁〉が神事に行われているように、その起こりは、仏教儀礼が神仏習合や民間芸能との関わりを深めるようになる過程にあると考えられている。
能とは別に各地で継承されている民俗芸能の翁舞には古いかたちが残っているそうだが、共通するのは、〈翁〉は天下泰平・国土安穏・五穀豊穣を祈る、祝言(謡)と舞で構成されているということだ。しかしその歌詞や所作に謎めいたところがあるために、民俗学者や人類学者や哲学者たちによってさまざまな解釈がなされている。近年にわかに翁ブームが起こっているとかいないとか?それだけ〈翁〉は魅力ある演目なのだ。
 
日吉大社の一人翁は、大戸の向こうに姿を現した神に向かって舞う。大夫の姿はうっすらとしか見えない。漆黒の空いっぱいに、「とうとうたらり」の声が響きわたる。
多くの神事や祭りは、夜明け前の闇の中で行われる。「闇」という漢字には「音」が入っていて、闇は神のおとずれ(音ずれ)を意味するのだと何かの本で読んだ。一晩中芸能を尽くして神を歓迎するような祭りがあるのは、昔の人は闇が何たるかを知っていたのだろう。
一人翁を舞う大夫の声は、神か宇宙か、もしくは先祖か精霊か、そこにあって見えないものに呼びかけているようだった。人間の声は、媒介なのだと思った。
 
 
最近、映画館に二度も足を運んで観た映画がある。映画のタイトルは、「一月の声に歓びを刻め」(三島由紀子監督)。ここにも「声」が入っている。この映画を知ったのは、新聞のレビューだった。監督が幼い頃に受けた性被害のことを、役者を通じて告白するような形でドラマが作られていると読んだ。映画は3章立てになっている。洞爺湖、八丈島、大阪とそれぞれの場所で暮らす3人の主人公は、それぞれの人生で起きた出来事によって傷を抱え、罪の意識を持ちながら生きている。
 
この映画は、監督の体験から生まれた作品ではあるが、決して性暴力や犯罪そのものをテーマとしているわけではない。そのことをきっかけに浮かび上がってくる、人間の心の複雑さや、自分という存在の不可解さ、また他者との関係性の中で抱える葛藤、そしてそれらと向き合う人の純粋な姿を描いている。
第3章のクライマックスシーンの前田敦子の演技に私は釘付けになった。

監督の分身ともいえる第3章の主人公は、大阪の川べりで道化師のような男と出会い、一晩を共に過ごす。あくる朝、彼女は男に「ついてきて」と言って、ある場所に向かいながら自らの忌々しい体験を語る。二人が着いた場所は、かつて性暴力をうけた場所だった。そこで彼女はあることをする。それはまるで、彼女のこれまで抱えてきた心の闇を葬るための、儀式のようだった。
 
もしかしたら監督にとってもこの映画を作ることは、儀式のようなものだったのではないだろうか。儀式には、立ち会って見守る存在が要る。主人公にとっての道化男がそうであったように、監督にとっては私たち観客である。私は2回観て2回とも大泣きした。不思議な感覚だったが、観終わった後に身体中にまとっていたのは、安心感や充足感のようなものだった。
おそらく、この映画から発せられた「声」が、何かを届けたのだと思う。それは、実際の役者の声でもあり、作品に込められているメッセージとしての声でもある。その声は、遠くにあって届かないものへの叫び、あるいは誰にも聞こえないけれど自分自身を奮い立たせるための叫び、人間の奥底にある力強さを感じさせる「声」だった。
 
 
能の〈翁〉も、3人の登場人物(人でもあり神でもある)が三者三様に舞う。そして祈りの声や歓喜の声を上げる。それらは楽器の奏でるリズムに誘導されて、儀礼のように粛々と進行していく。儀礼・儀式は、魂があるべきところへ還る、散逸したものが元の場所へ還る、そういう機能を持っているのではないだろうか。
前田敦子演じる主人公は、映画の最後、晴れやかな表情で鼻歌を歌いながら大阪の街を歩く。その声は徐々に高鳴っていく。このシーンは、どこかで見たことがあると思った。きっと、いろんな人の人生のどこかのワンシーンなのだ。
 
一人翁の舞が済むと、再び「オー」という発声で「ギィー」と戸が閉まり、儀式は終わる。あたりはまだ暗く、上のほうから煌々とかがやく月が見守っていた。

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