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「合気道至心会」が始まりました! in 岐阜


1.「至心会」の情報発信


はじめまして。寺町 鮟鱇と申します。
2022年11月に、故郷である岐阜へUターンすると同時に「合気道至心会」を立ち上げました。noteでは、日々の稽古日誌、合気道に関する情報、稽古のために役立つ資料などを発信していきます。

2.道場名の由来


「至心会」の名称は、中国古典『莊子』の一節、「至人の心を用いること鏡のごとし」(応帝王篇)から来ています。これは、私の師である多田宏先生(合気会本部師範, 九段)がたびたび口にされる言葉です。合気道だけでなく、あらゆる場面において自らの力を発揮するための、心のあり方を端的に表現しています。

原文の一節はこうです。
「至人之用心若鏡、不將不迎、應而不藏。故能勝物而不傷。」
わかりませんね。訳文はこうです。

「至人(道に達した人)の心の働きの虚しさは、あたかも鏡のようだ。何ものをも見送らず、何ものをも出迎えず、ただ物に対応してその形を映し出すだけで、内にしまいこむことがない。だからこそ、あらゆる物に打ち勝って、自分も無傷でいられるのである。」

池田知久 訳・解説(2017),『莊子 全現代語訳 上』,講談社学術文庫,p198
『莊子(上)』カバー

鏡は自分の前にあるものを、全てそのまま自分に映します。しかし、鏡自体は何が映り込んでも変わることがありません。映り込んでいる対象が鏡の前から移動すれば、鏡への映り込みも消えます。それでも、鏡自体は消えた対象には一切影響されることなく、安定してそこにあり続けます。

人が自分の心を鏡のように用いることができれば、それは絶対的に安定した状態となります。さらに、鏡の絶対的な安定は、対象を無視するから生まれるわけではありません。対象を自分(鏡面)に映しながら、それでも自分は安定した状態にある。心が対象に囚われず、鏡のように安定していれば、人は自らの力を発揮できます。

2-①.「心を鏡のように使えない」=「執着の状態」

多くの人は、自分の「心」(「意識」とか「気持ち」と言い換えてもかまいません)が「対象」に寄っていき、自由を失います。これが「執着の状態」です。この状態では、人は本来持っている力を十分に発揮することができません。

「執着」が持てる力の発揮を阻害する、
そんな例は日常のあらゆる場面に存在しています。具体例を挙げてみましょう。

テニスや野球などのスポーツを思い描きます。
最終的な目標は試合に勝つことですが、試合に勝つためにはそのためのプレーを1つずつ積み重ねるしかありません。しかし、「勝ちたい」という気持ちが先行して空回りしてしまい、肝心の1つずつのプレーに集中できない、結果として負けてしまう。これは「勝ちたい」=「結果」に執着したことで、力を発揮できない例と言えます

仕事でも同じようなことがあります。上司や同僚からの評価を気にするあまり(執着)、気持ちが萎縮して自分が主体的に動くことを忘れてしまう。その結果として指示待ちが続き、自分の力を発揮できない。肝心の評価も下がってしまう。

「執着」とは対象に囚われて自分の主体性を失った状態です。スポーツや仕事に限らず、外部要因に心を囚われて(執着して)実力を発揮できないことは、大なり小なりあらゆる場面に存在しています。

2-②.「心を鏡のように用いる」とはどういうこと?

一方、「心を鏡のように用いる」状態とはどのようなものでしょうか。この状態は「三昧」「サマディ」とも言われます。もっと身近なところでは、スポーツなどでみられる「ゾーンに入る」状態とも言われます。超一流選手がゾーンに入ると、手がつけられない、といった感じで試合を支配します。

一流のスポーツ選手が「ゾーンに入る」と、そこには目に見える結果が現れるため、一見すると「ゾーンに入る」のは一部の人間だけに可能な、特別なことのように思えます。しかし、「ゾーンに入る」ことを、「何物にも心が囚われず、自分の持てる力を最大限に発揮できる状態」と言い換えれば、程度の差はあれど、いつでも、どこでも、誰にでもできる技術として捉え直すことができます。

東洋そして日本では、この状態(ゾーンに入る状態)を「日常的な心の使い方として身につけること」を大きな目的の1つとして、身体(からだ)を通じた具体的な訓練法が工夫されてきました。多くの宗教的な行法(ヨーガ、座禅、禊祓の行)や、伝統的な武術・武道はこの特徴を有しています。

そして、植芝盛平大先生が創始した合気道も、こうした東洋そして日本の伝統的な訓練法の特徴を色濃く受け継いでいます。

3.「心の使い方」を合気道で学ぶとは?


3-①.心の使い方は、体術に「はっきりと」現れる

それ自体は見えないので、「心」だけを切り出して、その使い方を学ぶことはとても難しい。しかし、対人稽古を行う合気道では、心の使い方・あり方が、稽古相手を通してはっきりと、目に見える形で現れます。稽古相手を通して現れた変化によって、自らの心の使い方・あり方を見て取れるのです。

具体例を挙げてみましょう。
稽古相手を意識して、技の途中で相手の身体に目が留まる。すると、途端に自分の意識が相手に寄りかかり(執着の状態)、それに伴い、身体の重心も相手に寄っていきます。結果として自分の身体の安定が失われ、技の線は崩れます。
一方、目線を相手ではなく、自分が安定する位置に留めるようにすると、自分の安定は崩れません。

「相手を投げよう」と意識します。途端に力みが出て技に無理が出るとともに、投げる力も小さくなります。
一方、相手の存在を感じながらも、相手を通り抜けるようなつもりで身体を動かしてみます。途端に身体の使い方にノビが出て、結果として投げる力も大きくなります。

このように、心の使い方(意識のあり方)は、体術(技の稽古)の中にはっきりと現れます。したがって、合気道の技が上達するということは、そのまま心と身体の使い方に熟達するということになります。

「武術・武道における技術的な向上は、心と身体の使い方の熟達そのものである」という考え方は、江戸時代の剣術書『天狗芸術論』にも明記されています。ここではその一節を引用します。

剣術は勝負の事(わざ)なりといへども、その極則に及んでは身体自然の妙用にあらずといふ事なし

佚斎樗山/ 石井邦夫 訳注(2014),『天狗芸術論・猫の妙術 全訳注』, 講談社学術文庫,pp11-13

訳文は次の通りです。

剣術は勝負の技であるとはいっても、その究極の原理に至れば、それは人の心と体に本来そなわった機能の絶妙のはたらきに他ならない

同上

3-②.試合や点数制がない

合気道の大きな特徴は、試合や点数によって相手と競わない点にあります。

上述のように、「対象に心を囚われない」ことが自分に備わった力を最大限に発揮するポイントです。そして、試合や点数によって競い合わない合気道は、まさにこのポイントを押さえた稽古を可能にします。

しかし、競技のためのルールがあり、ルールの中で他者との勝敗・強弱を競い合うスポーツや現代武道では、「対象に心を囚われない」ことは至難の技と言えます。だからこそ、「ゾーンに入る」とか「無我の境地」といった状態が特別視されるのかもしれません。

「試合」や「点数」で競わないからこそできる稽古があります。
しかし、現代人の骨髄まで馴染んだ、「スポーツ・武道」=「試合」という固定概念や常識(?)が、合気道を知らない人たち、そして合気道を稽古している人たちにとっても、合気道を分かりにくいものにしているように思います。

「試合」や「点数」で競わないからこそ、できる稽古がある。
合気道の稽古を通じて、その意味を実感してもらいたいと思っています。

3-③.合気道の面白さを体感してください

「合気道とは、命の力の高め方、保ち方、使い方を学ぶ訓練法である」
これは、多田宏先生から教わり、私の中心核となった考え方です。

また、「合気道のような東洋・日本の伝統的な訓練法は、どのような分野でも一流になるためのエッセンスを学べるのだ」とも教わりました。

たかが習い事で何を大げさな、と思われるかもしれません。
ですが、私自身、合気道を通じて学んだエッセンスを、日常生活や仕事、趣味(楽器演奏・手話)などで実践してみて、その有用性を確信するに至りました。しかし、これは考えてみれば当然のことだと思います。

勉学・仕事・学術研究・趣味・家事・スポーツ・武道、こうした日常生活におけるあらゆる物事は、「自らの心と身体を通して行う」という点では、全てにおいて共通しているのですから。合気道という「一芸」を通して学んだことが、その他のあらゆる場面で活きてくる。これを多田先生は「一芸を通じて道に入る」と表現されていました。

そして、何よりも合気道の稽古自体が面白い
だからこそ私は、面白く奥深い合気道を、皆さんと稽古していきたいと思っています。

ぜひ、至心会の稽古の場で、合気道の面白さを体感してください。

(本文終わり)



【合気道至心会のご案内】

◎岐阜市を中心に活動しています。詳細はHPをご覧ください。

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