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合気道における「目付」の大切さ

(0)はじめに

合気道では「目付」が大切です。

私の師匠である多田宏先生(合気会本部師範, 九段)は、稽古において「目付」への意識を、たびたび促されます。その頻度だけを見ても、稽古における「目付」の大切さを、うかがい知ることができます。

この記事では、「目付」の重要性について、その理由とともに、整理していきます。


(1)「目付」とは?

① 目の技術的な使い方(?)

「目付」は、主に剣道・剣術の用語です。一般的には、宮本武蔵の『五輪書』(水の巻)・『兵法三十五か条の書』(*1)の一節を引いて説明されることが多いようです。その他、柳生宗矩の『兵法家伝書』等にも、目の使い方を説く箇所(*2)が見られます。

一瞬の「機」が生死を分ける剣術の世界において、「目」が大切にされることは、当然ですね。

ちなみに、辞書的には、「目付」は別の意味になります。

【目付(めつけ)】
江戸時代、旗本の非行などの取締りを役目とした武士の職名。

新明解国語辞典(第八版)

私の見る限り、武道やスポーツで「目付」というときには、「目の技術的な使い方」にスポットが当たるようです。具体的には、「中心視・周辺視」等の、目の焦点(フォーカス)に、多くの説明が充てられています。

②「目付」=「目の付けどころ」

もちろん、そうした「技術的な目の使い方」が大切であることは間違いありません。この記事でも、「目付」というときには、「技術的な目の使い方」として、「遠山(えんざん・とおやま)の目付」を念頭に置いています。どこか1点を凝視するのではなく、全体を、見るともなく見るような、目の使い方です。

ですが、この記事で言及したい「目付」とは、「目の使い方(目の焦点)」に関する技術論よりも、「(物理的な)目の付けどころ」または「(物理的な)目の置きどころ」を意味しています。

(2)「目付」=(「目の付けどころ」)の前提

(前提①)自分が最も安定する姿勢・体勢

「顔の向き・角度」を変えると、それに合わせて「目付」(=「目の付けどころ(目の置きどころ)」)は変化します(注)。

(注)顔の向き・角度に合わせて、自然に、まっすぐ見るようにします。このとき、前述の「遠山の目付」を用います。「目だけ」を動かすことは、想定しません(*3)。

また、「顔の向き・角度」は、「自分が最も安定する姿勢・体勢」によって変化します。

つまり、「自分が最も安定する姿勢・体勢」を取れば、「顔の向き・角度」が自然と決まり、それに合わせて「目付(の向き・角度)」も、自然と決まることになります。

合気道は常に動きながら稽古を進めますが、動きながらも常に、「自分が最も安定する姿勢・体勢」であることが求められます。そのため、稽古では、「自分が最も安定する姿勢・体勢」を取りながら、それにつれて、「目付」(=「目の付けどころ」)が変化していきます。

したがって、「目付」の前提には、「自分が最も安定する姿勢・体勢」がある、と言えます。

姿勢・体勢に合わせて「目付」が変化する
(「一重の半身」では、目線の角度は少し下に向く)

(前提②)目をつぶらない

合気道を稽古していると、稽古中に目をつぶる方をお見かけすることがあります。

身体の内側の感覚や相手の力を、しっかりと感じ取ろうとする意識の現れと思いますが、あまりおすすめできません。というのも、視覚情報がなければ、自分の姿勢・体勢、または相手との位置関係等が分からないからです。

また、合気道は「武道」です。そのベースには「剣術・槍術」があります。相手と競い合うことはないので、「目をつぶる」という決定的な隙(すき)を見せても、負けることも、怪我をすることも(ほとんど)ないでしょう。

ですが、「剣術・槍術」の流れを汲む「武道」である限り、「目をつぶる」という、決定的な隙を自ら生む行為は、望ましくないはずです。

(3)「目付」を大切にする理由

(理由①)心の「絶対的な安定」のため

稽古では「集中」と「執着」の違いに、よくよく注意する必要があります(*4)。そして、その違いが現れやすいのが「目付」です。

合気道では、稽古中、膨大な種類・数の要素(=「対象」)を意識する必要があります。すると思わず、気になる「対象」に意識を囚われ、その「対象」を「凝視」していることがあります。

例えば、

  • 例1:手元を見る(手捌きが気になるとき)

  • 例2:足元を見る(足捌きが気になるとき)

  • 例3:相手の身体を見る(技の効き具合や、相手の動きが気になるとき)

  • 例4:相手の打ち込みを見る(正面打ち・横面打ち・中段突き・etc.)

このとき、自分の意識は「対象」に囚われており、心身は自由を失っています。稽古に「集中」しているつもりが、いつの間にか「執着」の状態になっているのです。

「対象」に意識を囚われた、「執着」の状態

「対象」に意識を囚われ、「目付」をその「対象」に合わせるとき、それは「対象」に対して「執着」が生まれた、対立的な状態です。このとき、心身は凝滞を生じ、自由を失っています。武道的に言えば、「隙(すき)」が生まれています。

最もわかりやすいのは、
例4:相手の打ち込みを見る(正面打ち・横面打ち・中段突き・etc.)場合です。相手の打ち込みに囚われて(執着して)「凝視」すれば、身体は動きません。

正面打ちや中段突き等の稽古において、相手の打ち込みを見たまま身体が動かず、そのまま打ち込まれたということは、多くの方が経験していると思います。

だからこそ、稽古では、相手の打ち込む様子を見るともなく見る(遠山の目付)。そして相手の打ち込みを待つことなく、自分から動いていきます。

とはいえ、「執着」の状態は、「打ち込み」のような、分かりやすい場面だけで起きるわけではありません。手捌きや足捌きが気になるとき(例1・例2)、または、自分の技の効き具合が気になって相手の反応をうかがうとき(例3)など、何気ない場面ほど注意が必要です。

稽古に「集中」しようとするほど、その「対象」を凝視しがちです。そして、「対象を凝視する」という「目付」を通して、「対象への執着」(=「隙」)が現れているという点には、自覚的であるべきだと思います。

「対象」への「執着」から自由になり、心身が「絶対的な安定」の状態で稽古をするためにも、対象を凝視しないような目付が必要なのです。

そのために、稽古で意識するポイントは、次の通りです。

【対象への「執着」を生まないためには?】
●「触覚」を大切にする(相手と接する部分の「触覚」)
●「対象」ではなく、「自分の身体が安定する」ところに「目付」を取る

(理由②)身体の「絶対的な安定」のため

先ほど、「自分が最も安定する姿勢・体勢」が「目付」の前提、と書きました(前提①)。

「目付」(=「目の付けどころ(目の置きどころ)」)を「対象」に置く場合、ほぼ例外なく、「自分が最も安定する姿勢・体勢」からは遠ざかっています。

例えば、

  • 例1:手元を見る(→→手元を覗き込むような姿勢になる)

  • 例2:足元を見る(→→足元を覗き込むような姿勢になる)

  • 例3:相手を見る(→→相手に寄りかかるような姿勢になる)

  • 例4:相手の打ち込みを見る(→→打ち込みを覗き込んだり、見上げたりするような姿勢になる)

「心(意識)」が「対象」に執着すれば、無意識のうちに「身体」も、その「対象」に寄りかかっていきます。「対象」を「見る」ことによって、「自分が最も安定する姿勢・体勢」から遠ざかっていくことは、例1~4を試してみれば、すぐにわかります。

ここで改めて、「目付」を意識した稽古のポイントを確認します。

【対象への「執着」を生まないためには?】
●「触覚」を大切にする(相手と接する部分の「触覚」)
●「対象」ではなく、「自分の身体が安定する」ところに「目付」を取る

(参考)目付は錨(いかり)である

あるとき、師匠が「目付は錨(いかり)である」と表現されました。

これを聞いた瞬間、なるほど!!と、(稽古中なので心の中で)膝を叩いた記憶があります。

前述の通り、「自分が最も安定する姿勢・体勢」が前提となって、「目付」の向きや角度が決まります。ですが、身体の姿勢・体勢は、「目付」が決まることで、安定感が加わります。ピタッと身体が決まるような感覚です。

まさに、「目付」とは、身体を物理的に安定させる「錨」なのです。

(4)稽古における具体的なポイント

① ~しない(「目付」を意識する方法 - 其の1 -)

「目付」を意識する方法は、次の2つに大別できます。

  1. 「対象」に囚われない(~しない)

  2. 「~のあたり」を見る(~する)

1.「対象」に囚われない(~しない)、については、ここまでに書いたとおりです。手元・足元・相手・相手の打ち込みなどに目付を留めないようにします。

繰り返しになりますが、手元・足元・相手などの「対象」に目付を留めるとき、ほぼ例外なく、「自分が最も安定する心身の状態」からは遠ざかっています。

では、「目付」をどこに置くのか?

ここで、(前述の)2つのポイントが活きてきます。

  • 「触覚」を大切にする(相手と接する部分の「触覚」)

  • 「対象」ではなく、「自分の身体が安定する」ところに「目付」を取る

「見る」のではなく、主に「触覚」を通して対象を「感じる」ようにします。そして、「自分の身体が安定するところ」に「目付」を置くようにします。

② ~する(「目付」を意識する方法 - 其の2 -)

とはいえ、最初のうちは「自分の身体が安定するところ」と言われても分かりません。そこで、「~のあたり」を見る、というように、具体的な「目付の目安」を設けます。

例えば、次のように、

  • 壁の下あたりを見る

  • 2~3M先の畳に目を落とす

  • 道場の正面から奥へ、ぱっと目線を切り替える

  • 足の親指の先を見る(四方投げ)

「頭」で思い描く通りに自分の「身体」が動くようになるためには、はっきりと、明確に、自分の動きを意識しながら稽古を進める必要があります。これはもちろん、「目付」にも当てはまります。

ですが、「自分が最も安定する姿勢・体勢」と、それに合う「目付」を、最初から一致させることは困難です。だからこそ、「~のあたりを見る/~に目を落とす」等のように、目付の「目安」を定めながら、稽古を行います。

③「目安」とは、「稽古の方便」です

このように、稽古の「目安」を仮に設けることを、稽古における「方便」と言い習わしています。「方便」を用いることで、その稽古を、ぼんやりした曖昧なものから、はっきりと、輪郭を伴ったものに変えることができます。

例えば、「対象を見ない(~しない)」と意識するだけでは、「目付」の位置を定めることは困難です。そこで、「~のあたりを見る(~する)」、という「目安(=方便)」を設けることで、「目付」の方向性が定まり、それに連れて「自分が最も安定する姿勢・体勢」も決まります。

このように、稽古では「方便」を用いることが有効です。「目付」の「目安(方便)」については、稽古の場面ごとにお伝えしていますが、ご自分でも常に意識してみてください。

【方便(ほうべん)】
①(仏教で)衆生を導くための手段。
②(目的を果たすために仮に用いる)便宜的な手段。

新明解国語辞典(第八版)

④ 初心のうちから気をつける

ちなみに、ここまで書いた内容は「上級者向け」ではありません。初心のうちから気をつけるべき内容です。

ここで、稽古の大前提を確認します。

● 初心のときに付いた癖は直すことが難しい
● 上手になったからできるようになるのではない。最初からそのように稽古する必要があるのだ

多田先生直話

「目付」への意識は、稽古を始めたその瞬間から必要です。最初から意識するからこそ、できるようになるのです。

反対に、「目付」への意識を疎かにして、対象(手元・足元・相手 等)を見ることが癖になってしまうと、その癖を後から直すには、大変な努力が必要になります(直ったと思っても、不意に出てしまうのが「癖」でもあります)。

また、上述の通り、対象を見ているときは、対象への執着が生まれて、心身の自由が失われた状態(隙のある状態)です。加えて、(ほぼ例外なく)「自分が最も安定する姿勢・体勢」からは遠ざかっています。

つまり、「対象を見る」という目付の「癖」は、「対象に執着するという心の癖」と、「悪い姿勢という癖」を含んでいるのです。一度身についてしまった目付の悪い癖を直すことが、いかに難しいかがわかります。

だからこそ、初心のうちから「目付」に気をつける必要があるのです。

(本文終わり)


【参考・引用文献】

(*1)『五輪書』(宮本武蔵, 佐藤正英 校注・訳, ちくま学芸文庫, 第十刷)

(水の巻・訳文)
一、兵法における目付けということ。
目の遣いかたは、大きく、広く捉えることである。

観と見との二つの眼の遣い方がある。遠いところを見る観の眼を強く遣い、近いところを見る見の眼を弱く遣って、遠いところを明確に近くに見、近いところを大局的に遠くとして見ることが、兵法の道において重要である。

相手の太刀の運びを知って、相手の太刀の運びを少しも眼で追わないことは、兵法における大事である。考えをめぐらすべきである。眼の遣いようは、一対一の戦いにおいても、多人数の合戦においても同じことである。眼の玉を動かすことなく、両脇を見ることは大切である。(後略)

同書, p86

(兵法三十五か条の書・訳文)
一、目付けのこと。
眼を付けるべきところは、昔からいろいろいわれているが、わが二天一流の目付けは、おおよそ敵の顔に眼を付ける。眼の遣いようは、平生よりもやや細めにして、明るく柔和に見る。眼の玉を動かさず、敵との間隔が近くても、いかにも遠くを見る眼である。その眼で見れば、敵の技はいうまでもなく、敵の両脇までも見える。

遠く広くを見る観と、近くを詳しく見る見との二つの眼があるが、観の目を強く、見の眼を弱く遣うべきである。

また、敵に悟られてしまうという眼がある。一つのことに集中する意思である意のこころは眼に現れ、大きく広い心構えである心のこころは眼に現れない。よくよく考え尽くすべきである。

同書, pp226-227

(*2)『兵法家伝書』(柳生宗矩著, 渡辺一郎 校注, 岩波文庫, 第二刷, p79「一 神妙剣見る事、三段の分別」)

(*3)私の好きな漫画『刃牙シリーズ』では、愚地独歩という空手の達人が、カメレオンのように両目を別々に動かす、「散眼」という秘技を使っています。ただし、原則は眼球だけを動かすことはしません(※上記『五輪書』引用部分にも「眼の玉を動かすことなく、両脇を見ることは大切である」等の記述があります)。

(*4)多田先生が「対象に囚われない」ことを説明されるときには、『太阿記』(沢庵禅師)の冒頭部分をたびたび引用されます。なお、この一節に登場する「敵、我を見ず、我、敵を見ず」の「見る」とは、必ずしも、物理的な「視覚」だけを意味しているわけではありません。

蓋し兵法者は勝負を争わず、強弱に拘わらず、一歩を出でず、一歩を退かず。敵、我を見ず、我、敵を見ず。天地未分、陰陽到らざる処に徹して、直ちに功を得べし。

『沢庵 不動智神妙録』(徳間書店, 池田諭訳, 2010年23刷版, pp173-178)

なお、「集中」と「執着」の違いについては、こちらの記事にも書いています(記事:「合気道至心会」が始まりました! in 岐阜)



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