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漫才衣装論② 銀シャリ 揃いの衣装の魅力

漫才の衣装について考える前段を書いてみました。

ここからは具体的な例を挙げながら、漫才の衣装についてアレコレ考えたことを書いてみます。

ただのお笑いファンというだけで、漫才師でもなければ、ファッションの専門家でもないので、見当違いなものも多いかと思いますが、悪しからず。

M-1戦士たちの衣装

わかりやすく、M-1決勝進出者たちのM-1決勝での衣装を例にしてみました。多くの人が見ているというのもありますし、公式に公開されている画像も多いですし。

あと、M-1は大舞台ですから、各芸人さんが考え抜いて選んだ衣装で臨んでいるはずだ、というのもあります。

ではまず、M-1グランプリ2016王者の銀シャリの衣装について考えていきます。

THE漫才衣装 銀シャリ

鮮やかな青ジャケット、白シャツ、赤ネクタイ、黒いズボンで「揃い」の衣装。

多くの人の頭の中にある「漫才師のイメージ」がそのまま出てきたかのような衣装。

きっとファッション用語ではクラシカルとかトラディショナルとか言われるのでしょう。おそらく。たぶん。言うんじゃないかな。

本人たちも、たしかM-1の紹介VTRとかで「やすきよさんみたいな漫才が理想」と言っていた気がする。それに衣装も合わせているのでしょう。

そんなこともあって銀シャリの漫才は、「しゃべくり漫才の王道」とか「正統派漫才師」などと言われることが多いです。

たしかに漫才の冒頭から「俺○○になりたいから練習させて」みたいなフリから始まる、いわゆる「コント漫才」とは異なり、ほぼ二人の会話だけで成立させている漫才、すなわち「しゃべくり漫才」のコンビであることは間違いないでしょう。しかし、銀シャリの漫才から古臭さはあまり感じません。

それはもちろん二人の技術力が高いからというのに尽きますが、ここで尽きさせてしまうと終わってしまうので、無理やり衣装の話につなげます。

したたかな衣装

銀シャリの漫才は、1つのボケに対して、ツッコミが1つ2つと畳み掛けていくようなスタイルで、そのツッコミのフレーズセンス発想のユニークさで笑いを増幅させるような漫才です。

ツッコミのフレーズ力というのは、今では当然持つべきものというようになってはいますが、これがクラシカルでトラディショナルな漫才から通じてそうだったかというと、そういうわけではないのではないと思っています。

従来のツッコミはボケの指摘で、観客に笑いどころをわからせる立場であり、つまりはツッコミはボケの補助としての役割が強く、単独でボケに勝るフレーズを出すことは少なかったと思われます。

それゆえに2004年の南海キャンディーズの山里さんのツッコミは革命的なものとして受け止められたわけです。

となると銀シャリの漫才は、そのツッコミのあり方だけをみれば、十二分に近代的な漫才に分類されるわけです。

つまり、クラシカルな漫才という立場から見れば特殊な漫才

しかし、私たちはそのことになかなか気がつかない。
それはやっぱり、あの衣装の影響が大きいのではないかと思う。

あんな衣装をしている人たちが、ハイセンスなものを見せるわけない、というある種の偏見があるわけです。
昔ながらの、「エンタメ」よりも「大衆演芸」と呼ぶのにふさわしいような漫才を見せてくれるような気がするのです。あの衣装を見ると。

その先入観に違和感を覚えるほど、一つ一つの漫才は長くないわけですから、見せられたのが「センスある笑い」といわれるようなものだとは気がつかないのかもしれません。

そうすることで、センスが全面に出すぎると、どうしても拒否反応が出てしまって、「これは私にはわからないものだ」と耳を閉ざしてしまう人達をも巻き込むことができます。

昔ながらの漫才を見せますよ、という雰囲気で引き付けながら、その中に現代的なセンスを紛れ込ませる。なかなか巧妙なものだと思います。

もちろん、それが意図したものなのか、本心はクラシカルな笑いを求めていたのに、自分たちのセンスが自分たちの漫才に染み出していったのか。
それは闇の中です。

ただ、漫才衣装の効果を考える上で、とても参考になる例だと思います。

漫才衣装分類① 揃いの衣装

揃い=クラシカル?

じゃあ、なんで銀シャリの衣装が典型的な漫才師に見えるのか?というとよくわかりません。

多分、揃いの衣装というのがキーなのだろうと思います。

大ベテランの漫才師(特に関東の漫才師)の方々は揃いの衣装というのをすごく大事にしている印象があります。

前の記事の『浅草キッド』で描かれていたような「同じスーツ」「同じかたちの蝶ネクタイ」「同じ靴」というのは典型的な漫才師像です。

おぼんこぼんは、長い仲違いの時期に、揃いの衣装を拒否し、仲直り後には揃いの衣装を着るようになっています。

やはり、クラシカルな漫才師像と揃いの衣装との相性はかなり高いように思います。

しかし、「揃いの衣装=昔ながらの漫才師」というわけではないというのも面白いところです。

ここ数年のM-1で考えてみましょう。
銀シャリを除くコンビで衣装が「揃い」(完全に揃いというわけではないですが、私の目で「見た目が一緒」と思った衣装)だった場合はだったのは、ジャルジャル、オズワルド、ロングコートダディの三組です。

この3組を「昔ながらの漫才師」と思う人がいるでしょうか。
明らかにそうではありません。
スタイリッシュでハイセンスで最先端の笑い側の漫才師です。

クラシカルな漫才師の印象は揃いの衣装以外に、ほかに何らかの要素、例えば服の形なのか色なのか、着方なのか、わからないけれど、そういったものが足されないといけないのでしょう。

揃いの衣装の「世界観」

ではなぜ揃いの衣装を選ぶのでしょう。

揃いの衣装の効果として、「世界観」を作れるというのがあるのではないかと考えています。

基本的に大人はバラバラの服を着ています。
上から下まで同じ格好をしている人に出会うシチュエーションは稀です。
それを目撃すると違和感を感じるのが普通です。
もしかしたら『シャイニング』の双子の少女のように恐怖すら感じさせるかもしれません。

揃った衣装を着ている人というのは、世界から切り離された浮いた存在として認知されることが多いのでしょう。

それゆえに、漫才で同じ衣装を着ていると、2人だけで成立している世界を観客が第三者の立場から見守るようなシチュエーションを作ることができるのだと思うのです。

だからこそ、銀シャリのように二人が個人的な話をする「しゃべくり漫才」の方が揃いの衣装には向いているし、ジャルジャルのように独自のルールの遊びに興じる二人を見ていても無理なく見れるのかもしれません。

これは個人的な捉え方なのかもしれませんが、揃いの衣装での「コント漫才」は違和感を感じることがあります。
片っ方がコントの世界に入っているのに、もう一方は外から冷静な目で見ている状況になっていると、いびつなねじれのようなものを感じてしまいソワソワします。

ロングコートダディは「コント漫才」ではありましたが、どちらも冒頭から変な世界の中に全力で突っ込んでいっているので、問題なかったのかもしれません。

揃いの衣装はリスキー?

「揃いの衣装」の漫才コンビはM-1を見ている限り、かなり少ない印象があります。
決勝に行っているのも、先ほどの3組くらいでしょうか。

「揃いの衣装」によって自分たちの空気、自分たちの世界を簡単に作れるわけですから、見ている人もその空気、世界の中に巻き込めればかなり良い効果がある一方で、それができなければ、見る人に疎外感を感じさせたり、すごく冷静な目で見られる可能性もあるかもしれません。
となるとハマるかハマらないかのリスクが大きい気がします。

見た目的に、変にオシャレすぎて見えたり、逆に古臭く見えたり、幅も大きい気もします。
単純に揃いを用意するのが面倒くさかったり、どことなく恥ずかしい気がするという心理的な問題もしれません。

まあ、いろんな理由があって、揃いの衣装は減ってきているのかもしれません。


銀シャリの漫才衣装から始まって、揃いの衣装に関して考えました。
揃いの衣装は、個人的には、漫才コンビらしさが溢れていて、見ると少し得した気分になって好きです。

次は錦鯉について考えます。

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