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くしびきニワトリ事始め

愛鶏園にとって貴重な資料が見つかりました。

愛鶏園の2代目である齋藤富士雄が、創業の地である神奈川県から新天地を求めて埼玉県の深谷市に移住した経緯が手に取るようにわかります。齋藤富士雄が、櫛挽開拓50年の記念誌にその思いを投稿していたのです。

愛鶏園が深谷市にお世話になるきっかけがわかります。電子文書に記録として起こしました。


くしびきニワトリ事始め

                 斎藤富士雄(愛鶏園・岡部町本北)

私はその日のことを忘れません。

昭和40年2月、その日は粉雪が降っていました。
地図を片手に29歳の私は、生まれて初めて櫛挽の土地に足を踏み入れました。道路はガチガチに凍り、あたりは雪におおわれて真っ白でした。

 いま思うと不思議なことですが、その時一目でこの土地が好きになっていました。誰も知る人がいないので、当時いまにも壊れそうな櫛挽開拓農協の事務所を、その足で訪れました。うす暗い部屋の奥で背筋のピンと伸びた古武士のような人物に会うことが出来ました。野田兵蔵組合長でした。運が良かったとしか言いようがありません。

 櫛挽の土地を購入したいという若僧に対して、野田組合長は独特の言いまわしで、「おまえが本当に家族ごとここに引越してきて、ニワトリを飼うのなら世話しよう」その一言で決まりました。まもなく本北の黒沢さんの土地に入植させてもらいました。

 当時の私はオヤジから独立して、神奈川県の相模原市にてニワトリで自立して、やっと経営が軌道にのってきたところでした。ところが好事魔多し、昭和39年、そのころ最も恐れられていたニワトリの伝染病であるニューカッスル病にやられ、私をふくめその地域は全滅の危機にさらされていました。当時流行りの集団養鶏地帯は鶏病の巣になって、経営の存続が問われていたのです。ニワトリの仕事を続けるには、新天地に移動するしかないと思い詰め、栃木・茨城・群馬・千葉そして埼玉県と、地図を片手に飛びまわっておりました。それで櫛挽の地にめぐり会えたのです。

 なにかの因縁としか言いようがありません。以来櫛挽に世話になり、夢中になってニワトリを飼っている間に、あっという間に30年がたちました。
 この土地に来てほんとに多くの人達に助けられました。5人の子供達はいずれも櫛挽育ち、櫛挽がほんとうの故郷です。私達夫婦にとっては青春の汗をそそぎこんだ第二の故郷です。

 ”人生にもしあの時・・・で ” の仮定は成り立ちませんが、いつも櫛挽に雪が降ると    ”もしもあの時櫛挽に足を踏みいれていなかったら?” ”もしもあの時野田組合長に会っていなかったら?” どうなっていただろうと30年前のことを思いおこします。

                  

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