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7. いじめや不毛な連鎖を絶つには、根源である親やいじわるする側へのケアが必要。敬意と感謝を込めた寄り添いを。

こどもがいじわるになる根源。親が抱える心の癖を観て、寄り添いたい。

禍福は糾える縄の如し。いじわるな存在との交わりを避けるための進学校選択であったが、各コミュニティに一定数はいるものだ。いまさらながらに、小学校にも一、二人いたのを思い出した。彼女たちもまた家族内の軋轢に苦しんでいたこどもであった。

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中学校にも、家族内の衝突で満たされていない同級生がいた。目立っている人だけでも十人近く。中学受験の多くは親の選択であろう。こどもが好きなことをたのしみたい遊びたい、親から見てもらいたい聴いてもらいたい受け入れてもらいたい時期に、親から寄り添ったり耳を傾けてもらえず、その上に、塾に行きなさい、がんばりなさい、良い学校に入りなさい、といった自分の意思とは異なる司令を半強制的に受けている場合、受け手のやわらかな心に歪みが生じるのに時間はかからない。選択肢がないために反発や抵抗を諦め、満たされない気持ちを抱えながら、無理にでも励む中で親に褒められる認められるよろこびを感じ、崩れそうなバランスをぎりぎり保とうとしているこどももいるであろう。どれほどに葛藤と困惑に苛まれているであろう。

このような場合、焦りや不安、怒り、哀しみ、孤立など、親自身が満たされていない心の状態であることが多い。心に十分な余白がなく、自分自身のこともこどものことも適切に目を向けられず、両者の心の状態がさらに不安定化しやすい。親が一方的で励ましがなく厳しかったり、相手の歩みを待たずにすぐに叱ったり、称賛せず指摘したりといった行為は、こどもと言えども自分とは異なる人間であることを親が認識できず、自分の経験を当てはめては”反応的”になり、”評価”しているのである。その親も可哀想なことに、自分自身がまったくおなじ状況を親から体験したこどもであったか、自分のようにはなってほしくないといった”期待”をこどもに投影していることに気がついていないのであろう。こどもはもちろんのこと、親である彼らへの気づきのケア、心の寄り添いが必要である。

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親やおとなといえど、二十年、四十年、六十年ほど生きた、一人間である。期待や評価、疑いをもたず、彼らをありのままに観てあげないと、おかしなことになってしまう。どれほど長く生きてきたかは重要ではなく、どのように生きてきたかが、人としての在り方に顕著に現れるのは言うまでもない。親自身が満たされていない理由は様々にある。彼ら彼女らが幼少期から心の内に在る苦を浄化できていないことで無意識にか意識的に苦しみ続けていたり、夫婦間で共依存が生じ心に不安定さが増したり、夫婦もしくは親子間でこども時代に苦しんだコントロールドラマを続けてしまい意識的には抜け出せなくなったり、なにかをきっかけに自己喪失感が高まり自己を見失うことで鬱病になりあるがままに観えなくなることもあるだろう。そう、自覚の有無に関わらず、親である彼ら彼女らはとても苦しんでいるのだ。

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苦しみ喘ぐ親を近くに感じながら育ったこどもは、どのように親を観ているのであろうか。確実に不穏ななにかを感じていようとも、両親の不仲や親の親子間での不仲、仕事上での疲労など間接的な場合、具体的な手の差し伸べ方がわからず途方に暮れているかもしれない。親が抱く心の重い状況の矛先が直接自分に向いている場合は、手助け云々に思いを馳せる余裕はなく、親からの攻撃から逃れるだけでも必死なはずであろう。中には、出来不出来の差で親から兄弟間で贔屓が生じ、親への怒りと兄妹への嫉妬で孤立していたりするこどももいるであろう。ああ、本当に苦しいね。親世代も、こども世代も、適切な心のケアを得られることを心から願っている。

いじわるさを自分では止められない。無情な連鎖を絶つにはケアが必要。

どこか心が浮いているような、おしりがどーんと地に着いていないような人の、心の苦しみの断片は、言動や態度、表情にて、鏡を映す如く表れるものである。こどもの場合、学校での成績にも表れやすい。成績に厳しい親をもつこどもは親から認めてもらうために必死に成績を保とうとするが、その他の場合は、たとえば、親子共に無関心や諦めが生じ合っている場合、心の乱れがそのまま姿勢や紙面にも表れやすいであろう。得意な科目や先生や同級生から認められやすいなにかは伸びれど、他は“置いてけぼり”になっていく。手に負えないと意を下したのが伝わる一部の先生に対しては、見捨てられる哀しさや、評価での屈辱や悔しさ、惨めさから敵対心が芽生えるであろう。そうなれば、本人同士だけではなく、ともだちも巻き込んでの対立が生まれたりと、亀裂の勢いが増していく。

家庭環境だけでなく、学校環境までもと、属する環境が悪化していき、さらなる孤立が生まれる。引き裂かれるような痛みを伴いながらも、素直にもなれず、本心では心の叫びを受け止めてもらいたい存在からますます遠のいていく状況に。逃げ場がなくなりどうしようもないときに、似たような苦しみを抱く者と出逢い、仲間意識が強まり、それが大きなうねりと化す。大なり小なりあれど、多くの学校で起こっているのではないかと想像している。

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私がいた学年でも、六、七人の男子グループと学校間で確執が生じていた。ありがたいことに、先生たちは穏やかで厳しくも優しく寄り添ってくれる人が多く、私はほとんどの先生が大好きであったし、在そのものに感謝している。が、ほんの一部の先生は、人格評価において加減知らずで、言うなればいじわるであった。彼女たちは彼女たちで、どのようにすればよいのかわからなかった背景があったのであろう。そういった先生との間で起こった不調和が、あいにく、対嫌いな先生から対おとなへと拡がっていくものだ。実際、私は物怖じしないこともあり、自分の痛みから逃げるよりも、頭ごなしに吐かれることを厭い、台詞に対して、「こちらの話を聞かないで、決めつけるのはおかしい。適切とは言えないとおもいます。耳を傾けてください。」と、何度かめげずに率直に意見した。その後、その先生は相変わらず厳しいゆえにひどく嫌われていたものの、私には笑顔を向けてくれるようになった。その先生の表情や服装、口調からも苦しみが垣間見えていたので、合掌にて彼女の心の平和を願いたい。

おとなもこどもも親も先生も、みなが心のケア、自覚を促し慈悲で包み込むような愛のこもったケアを必要としている。「真っ正面から真摯に向き合いますよ、あなたも苦しんでいたんですね。つらかったですね、今の気持ちに寄り添いますよ。」と愛を贈ってくれる存在が必要なのである。家族や学校、ともだち、ご近所、習い事、寄り添いコミュニティなど、その支えを得られる先は人や環境に寄り、異なるであろう。誰もがそういったケアを得られる先がある世の中となっていくであろう。心のケアやその必要性に焦点をおいた時間を、お互いが受け止め合い癒やし合える時間や機会を、小学校など幼い段階で触れられる時代が訪れると確信している。すこしでも早い到来を願って。

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まずは、「こんにちは」と声をかける、シンプルなコミュニケーションでいいのではないであろうか。すっかりと忘れていたのだが、関わった先生たちひとりひとりの表情や気持ちの状態を確認するために「先生、お元気いかがですか? 」と、いくつもの教員室を定期的に訪れて、笑顔でご挨拶していたのを思いだした。廊下をスキップしながらね。昔から変わらないね。対象がおとなであろうとこどもであろうと、「あなたを大切に想っています」という相手への敬意と感謝をもって、根気強く、心底の“願い”を伝えてみれば、受け止め合える日が訪れる可能性は上がる。真っ直ぐに伝えるには、向き合う意思と気力、自己肯定感や自己効力感が要されるので、自己肯定感や自己効力感が低い人の場合や、多くの忙しない日常においては、言うほどには簡単ではないが、「こんにちは」は大きな一歩ではなかろうか。

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心友と呼べる存在に救われた。ひとりひとり悩みを抱えて生きているね。

私がいた中等部では、中学二年生のときに同高等学校の入学試験を受ける制度があるのだが、合格基準に達しなければ、退学に近いお知らせが届くと先生から何度も聞かされて(威かされて)いた。当時習っていた大好きな空手を辞めたほどには、無言のプレッシャーを日々感じていた。実際にどうであったかはわからないしこれだけがきっかけかは不明だが、入試結果判明後、数名が退学を希望・選択していた記憶が朧げにある。三年に上がるのを起に、明確に順位付けが行われるのであった。私は成績が落ちに落ちていったことで、三年のクラスでは、痛みを露わにするいじわるな男子グループの大勢と同じクラスになった。

彼らは弱い者や気に食わない者にいじわるする傾向があるが、背が高くスポーツが得意で、リーダーシップやカリスマ性があり、本来の心の清らかさや美しさ、愛おしさが垣間見えることも多く、同級生から一目置かれる存在で、男女ともに人気があった。ただ、私は彼らが苦手であった。かっこいいとおもうこともあったし称えていた部分もあったが、その好意を上回るほどに、複数人で集るように一人にいじわるするという姿勢が好きじゃなかった。今おもうと、心底かっこわるいことをしてまでして、自らの惨めさを曝け出していたのだ。助けてと素直に言えなかった彼らの苦しみを抱きしめてあげたい。不憫なことに、いじわるな行いに対して、愛を持って適切に叱ってくれる存在がいなかったということであろう。彼らにはいろいろなケアが必要であったろう。

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彼らの一部は、中一のとき、ぽっちゃりめの女の子が授業中におならをしたことで、お相撲さんの武蔵丸と屁を文字って、「屁武蔵(へむさし)、へむ」と心なく呼びはじめた。あまりにもひどい、、さすがに同情する人もいたはずだ。私も衝撃を受けた一人で、正義感が強く耐えられなかったであろう。当時は隣のクラスで見ず知らずの男子たちだったが、ひどい!やめてあげて!と勇気を振り絞って伝えに行った気がする。残念なことに、その女の子には嘘をつく癖や盗み癖があり、電子辞書など具体的な被害が何件か出たこともあって、彼女を嫌う人が増え、彼女を守る人はおらず、あだ名は浸透していった。彼女も家族関係でひどく悩んでいた一人で、それゆえのわかりやすい癖であった。結局、癖が問題となり、彼女は半年以内には退学していた。彼女の弱さを今、ご本人が受け止めていられることを願って。

一方、隣のクラスへの苦言の前後で、卒業後までも付き合うともだち二人との出逢いに恵まれる。それぞれと一対一で仲良くなり、二人とも心友と呼んでくれていた。彼女たちは、それぞれが趣味について話したいときに話す間柄のおともだちはいれど、属すことはなく、一人でいるのも心地悪くない感じで、個としての美しい“異”を放っていた印象であった。お泊まりにいかせてもらうほどに親しくなり、彼女たちもそれぞれの家族間で心地の悪さや苦しみ、淋しさを抱えていたのを知った。「愛華のおかあさんみたいな人が親ならよかったのに。」と何度も言っていた。母娘間の調停役をさせてもらったことがあるのだが、お母様からご相談を受ける機会がそれなりにあったほど悩ましかった様子であった。親子共々、お互いの存在で満たし合うことができず、傷をつけ合って、つらかったであろう。

ご家族との悩み、趣味や好きなことでのわくわく、気になっている人へのときめきなど、あらゆる話題を伝えてくれた。私はほとんど聴かせてもらう側だった気がしている。心を開いてなんでも話してもらえることで、ゆるぎないつながりを感じられて、家族のことで苦しんでいた私も元気を取り戻していたに違いない。当時の私が彼女たちを支えきれたかというと心許く、その意味では大変申し訳ない。が、どのようなことであっても応援し合っていた私たちは、お互いにとって大切な、かけがえのない存在だった瞬間が何度もあったと確信している。

幸運にも、彼女たちは、当時から強くたくましかった。だから、どこか輝いてみえたのかもしれない。二人とも我道を歩み、羽ばたいた。一人は念願の小学校教諭にと教育大学へ、もう一人は高校を中退し都会の街へ。それぞれにとって、自らを救う選択を歩んでいることを嬉々としてよろこんでいる。私はそれぞれに支えてもらったと断言できるし、今、この瞬間に、感謝があふれている。笑顔と涙あふれる時間を共にできて、本当にしあわせであった。私にとっての青春は、間違いなく彼女たちだ。心からありがとう、いまさらながらに。

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「ママ」と呼ばれはじめる。人格の中核を表すあだ名を受けて。

遺憾ながら、わたしにもあだ名がついた。歯向かったことを根に持たれていたのかもしれない。二年か三年のときに、無心にも無邪気にも、E.T. を文字って「エッティ」というあだ名がついた。E.T. といえば有名なあの指と私の指が似ていた所以だった。小学生の頃から話題として触れられるのを避けていた、老婆のような皺のある手。時間の経過とは緩衝材のような優しさがあり、「お、E.T. とはもはや粋だな」と一瞬称えたくもなったが、いやいや、間違えてはいけない。その意図に愛情が込められていればの観点であり、どのような背景があれども、決していじわるを賛同してはいけないのだ。

家族のひとりひとりが苦しんだ過去があり、哀しみを背負った象徴ともいえるこの手。愛おしい身体の一部にも限らず、小学生の頃からなかなか受け止めるには至らず、おとなになってからも隠したくなるほど嫌悪していた存在であった。「ごめんね、おててさん。今は、大好きよ。存在に感謝しているよ。ありがとう」と慈しみ、抱きしめながら。人の痛みはどこにあるかわからない。他者にはわかる由もない。だから、なおさらに、意図的に人を傷つけようと、いただきもの・借りものである身体の特徴をターゲットにして、笑いを作るような無知を語る芸風には、強い嫌悪感を覚えるのである。たしか、このあだ名でひどく傷ついたことが原因で、教室にいるのが嫌になった数週間、保健室へ事ある事に訪れ横になっていたことや、駅前のロッテリアで心友と数回学校をサボったことを思いだした。可哀想だったね、本当に。

そして。六年間で最も印象に残る出来事が起こった。あだ名が変わる・増える転機が訪れたのだ。クラス替え以降なので、中三か高校一年のときであろう。心が癒えることのないいじわるなやんちゃ数人には、可愛げもあり心なくもありで、罵倒とまでは言わなくとも、「口呼吸うるさい」「歯だけ45度斜め向いてる」など、今ではもはや滑稽だが、当時は威圧的に感じた言動でいじわるされ、笑いのネタにされ続けていたように感じていた。が、それ以上に、純粋さや清らかさ、思いやりやユーモア、優しさ、誠実さのある、快活でさわやかなやんちゃな友人の方が多かった。その中で好意的についたあだ名が、「ママ」。先生にまで呼ばれるほどに浸透した。

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前述の幼稚園時代から発揮していたお世話役。小中高でも、ごく自然と言動に表れていたであろう。家族内での役割でも、ケアをする側であった。その在り方が「ママ」というあだ名につながったようだ。彼らののセンスに脱帽するね。当時の担任の先生が三者面談にて、満面の笑みで伝えてくれた言葉がある。「お母さん。(クラスのことは)愛華に任せておけば、大丈夫ですから!」と。定期的に思い出しては母がうれしそうに口にしている。そういえば。シェアハウスに一時的に住んでいた際、「愛華ちゃんって寮母さんみたいだね。」としとやかに微笑んで伝えてくれた友人がいたのを思いだした。

天命を明らかにしたいなら、三歳までの特徴がヒントに。

「ママ」の役割を見つめている中で、2019年三月、妹のような心友に「愛華さんって感情のレパートリー、少ないですよね。」と問いかけられて、ハッとしたことを思いだした。驚かれることが多いが、その頃まで、私は自分の感情がわからない人間であった。より適切には、うれしい!など満たされた感情の一部しか認識できなかった。機能不全家庭とまでは言わなくとも、家族内に生じていた不仲や喧騒に苦しんでいたのが理由であろう。今回、半生を振り返るまでは、祖母や母の“心の癖”に対して抱いていた、巨大な嫌悪感を認識できないほどには、心の一部がが破綻していた。もしかして、、とおもい調べてみると、アダルトチルドレンのタイプでは、ケアテイカー(世話役・リトルナース)タイプが当てはまりそうであった。家族を癒したり、支えるしっかり者。HSPの気質と同様、共感力がとても高いのが特徴で、相手の感情を敏感に察知する能力に優れている人が多いようで、まさに当てはまる。

うーん、アダルトチルドレンなのかな、と一週間ほど疑問を抱いていたが、ぎゅーっとタオルを絞るように追憶を深めるに連れて、そうではないと確信を得た。というのも、アダルトチルドレンとは、

子供時代に機能不全家庭で育ち、正常な成長過程を踏むことができなかったために、成人してからもこころの傷を抱えている方

である。私も幼少期の家族環境で苦しんだことで心に傷を抱えていた。が、私の場合、「お世話をする役割」は苦しんだ過程を経た上で一層に育まれた特性ではあるが、それ以前の、真っ白で愛と清らかさに包まれていた人格形成の骨格が確立する三歳の段階で、既にこの「お世話をする役割」の特徴を備え、その役割を担っていたのだ。実は、「三歳にして、今の人格を備えた小さな姿、リトル愛華が目に浮かぶ」、要は、「三歳の時点で、今世での役割、天命が垣間見えているのではないか。」がこの物語で最大の発見・仮説であり、興味深い。また、妹と私の性格の異なりは StrengthFinder でいうと真逆なほどに異なるのであるが、それは三歳までの過ごし方に鍵がある気がしている。

母親のおなかに宿借りする時点で決まっているであろう“天命、今世での役割”。他にも、おもしろいなと感じたのが、ああ、これも生まれたときから決まっていたのねえ、と受け取れた特徴があったことだ。小さい頃からであろう。友達と遊ぶときも常に二人が心地よく、三人以上で集うのは性に合わなかった。(複数人で行う、理科の実験の準備や共同作業が億劫で仕方がなかったのも関係しているのかもしれない。)じっくりと対話し寄り添いやすい人数である二人が適するように、細胞単位で心に組み込まれていたのであろう。妹が年子で生まれてきてくれたのも、二人で一緒に遊びやすいようにという”贈り物”であったに違いない。情報量が多すぎると疲れやすい HSP やアトピーをもって生まれたのも、両親や祖父母、兄妹の元で育ったのも、いじわるされたのもすべて、生まれてからこれまでの一連の過程すべては贈り物であり、天命を成し遂げる上で必要なパズルのピースであったのだと、今、強く確信している。

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愛を聢りと感じ、人の痛みを敏感に感じ、自らの痛みを痛烈に感じ、固執せず手放すことで得られる真のしあわせを感じ、生きている。自分や他者を、観察し(observe)、問いかけ(ask)、聴いて(listen)、寄り添う(compassion)を繰り返し経験していく中で、慈悲喜捨を育み、心の清浄・解放や精神的自立に向けて智慧をもって手を差し伸べ、それぞれが自らを真に救える(涅槃寂静)への道を歩むために、背中を押し応援する役割。この点において、お世話をする役割や引っ張る役割、GUIDE が、まさに私の天命なのであると、これまで以上に確信した。役割に名はなくてもいいが、与えるならば、Self-Journey Guider, Self-discovery Guider かな。天命には一年前に気づいていたので、Facebook Page『感じて、解いて。こころの浄化。-Food・Yoga・NVC・Minimalism- / @liberationfromoneselfwithaika』をつくったのだが、今はもうすべてがしっくりきている。中高時代をひとつひとつ丁寧に観ていったからこそ、再認識できた役割。ありがとう、うれしいね。

コラム:慈悲喜捨

衆生を利益するにあたって無制限に配慮する慈・悲・喜・捨の四種の心のありようで、仏や菩薩のもつ絶対の境地として尊重される。①慈無量は、いつくしみの心によってすべての生きものに楽しみを与えようとする心、②悲無量は、あわれみの心によってすべての生きものの苦しみを抜こうとする心、③喜無量は、自分を愛し、他をねたむ心を捨てて他人の楽しみをともに喜ぶ心、④捨無量は、私心がもたらす愛憎、好悪の心を捨てて他に対し平等に接する心のこと。

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中高時代にお世話になったすべての存在に、心からの感謝を込めて。

ティンカー・ベルのような妖精になった気分で、校舎を飛び回ったり駆け巡ったりしている絵を、半年か一年に一度、夢の中で見ていた。まるで、想いだして、と喚ばれているかのよう。ようやく全身でタイムスリップしてみたよ、おまたせしたね。努めても、蘇る思い出はいくつか。時間と記憶の相関関係は興味深いね。

ひとつ。入学直後ハンドボール部を作れずしょんぼりしていた際に、とりあえずで入ってみた硬式テニス部を遠距離通学での疲労で早々に辞めていたこと。ふたつ。助っ人で呼ばれ続けた陸上部で、駅伝を何度か走ったこと。本腰ではなかったことが今では心苦しく悔やまれるが、優れたリーダーと熱心で活気づいたチームメイトのおかげで、当時気力が高くなかった私が踏ん張れた瞬間をもつ機会を与えてもらえたことに、心から感謝している。ちょうど本日、父が十六年ぶりに見る当時のスパイクを靴箱から見つけたので、共に過ごした情熱が眩しく愛おしいね、と伝えさせてもらった。喚んでくれてありがとう。みっつ。文化祭にて『菊次郎の夏』などのお芝居で二、三度劇に出たこと。いじわる組は好きじゃなかったが、一緒に笑い合ったり励まし合ったり喜怒哀楽を分かち合ったりした時間もあったのだなと、再認識できてよろこびを感じている。彼らがいたからこそのあの六年間だったね。存在してくれてありがとう。それぞれが苦しみから解き放たれて、しあわせに過ごしていることを願っている。よっつ。高校一年から茶道部に入り、美女にあふれる土曜日を毎週過ごしたこと。きゃっきゃしたたのしい時間や心の潤いをありがとう。いつつ。毎朝の電車で一緒だった、高等部の人に惹かれていたこと。もしかすると、はじめて見た目を気にするようになったときかもしれないね。乙女の階段を登らせてくれて、たのしませてくれてありがとう。むっつ。高三の体育祭の練習で一目惚れした人がいたこと。(大学二年生の春、運命の再会をし、初めてお付き合いすることに。)あなたに逢うためにこの学校を選んだのかもしれないね。衝撃的などきどきの瞬間と京都での四年間をありがとうね。ななつ。教育実習生から図書館裏でこっそりと連絡先を渡されたこと。何がなんだかわからなくて、きゃー♡ ってなっていたね。ときめきと自信を与えてくれてありがとう。

最後に。中高六年間、巡り逢えたすべてのともだちや同級生、先生や、彼らと共にした時間の中で得られた喜怒哀楽すべての感情やその機会、校舎や机、校庭などのあらゆる物質、すべてに対して、心からの深謝と敬意を込めて。それぞれが、ご自身を救う道を歩まれていることを願って。恨みつらみの多い暗黒期だとおもっていたが、生きている間に、適切に観て、心改め、感謝を抱きしめられることを、この上ないよろこびに感じている。

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お気持ちを添えていただけたこと心よりうれしく想います。あなたの胸に想いが響いていたら幸いです。