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感想、そして交錯する幾層もの感情――福海陸「日曜日(付随する19枚のパルプ)」(文學界2024.5)


「ゲイ小説」「LGBT小説」「当事者小説」……。
 そのような表現の宣伝や批評を見るたびに、言いようのないもやもやが湧く。異性愛を扱っているだけで「ストレート小説」とは言わないし、シスヘテロの人物が主人公なだけで「シスヘテロ小説」とは評されない。もっと言うとシスヘテロ男性健常者純日本人当事者がシスヘテロ男性健常者純日本人主人公の小説を書いても決して「当事者小説」とは扱われないからだ。伝統的な文学のジャンルとして「私小説」と呼ばれるそれを、何らかの少数性を属性として持った者が書いた場合のみ「当事者小説」として括られる。あまつさえ、「流行りの」という枕詞までつけられて。


 福海陸「日曜日(付随する19枚のパルプ)」は、語り手の私「圭」とその恋人「佑基」が「れいちゃん」なる自称アライに粘着されたことで脅かされた日常を取り戻すまでの顛末を描いた日常小説である。

 固有名詞によって詳細にディテールを表し、最強のチャーハンの調理、喃語での睦み合いなどの他愛ない、しかしそれこそが生活そのものと言えよう小さなエピソードたちによって、圭と佑基ふたりの生活は限りなく具体的に描かれる。
 軽妙でユーモアに溢れ、仲がよく、ふたりでいるときは実に微笑ましい彼らだが、一方で他者に対しては時折ぎょっとするような露悪的な態度を取る。

 例えばれいちゃんとの初対面、クィアの恋愛を美化し特別視するような差別的発言に対しミラーリングで返すところまでは痛快だが、その指摘により焦りで早口になって謝るれいちゃんの口調を真似て同じように早口で謝ってからかうところなど、読んでいて嫌悪を感じるくらいに性格が悪い。
 しかし圭自身が自覚しているその「性格の悪さ」は、彼らにとっての生存戦略でもある。露悪的に振る舞い、他者と真摯に向き合わないことで、彼らは自らを、そしてふたりの平穏な生活を守っているのだ。

 自分を隠し、嘘をつき、閉じた世界で佑基と幸せに暮らし続けることのみを望んでいる圭。
〈おそらく私たちは鈍感なのだろう。(P70)〉 から始まる独白を真に受ければ、この小説は迷惑アライもどきと達観したマイノリティの勧善懲悪物語のように読めるだろう。それはこの小説の一面として確かに正しい読みだ。ただ、本当にそれだけ、、、、だろうか?

 露悪的で性格が悪い(と自認しているがゆえに余計に一人称でそれが前面に出る)圭だが、LINEで佑基の送ってきた性的な冗談を〈万が一誰かに見られたら〉と諌める、職場でアウティング危機を察すると怒るより先に泣く(そして事実上のアウティングを確信した後は会社を辞めようとまで考える)、大声が飛び交うような人混みの中だとおそらくパニック症状に類する症状が出る(P80他)、れいちゃんと喧嘩した後もキレるでも嗤うでもなく泣く(佑基のほうも大谷くん(仮)と喧嘩した後泣いている)、「人を傷つけたことで傷ついていないか」と佑基を気遣う、鳩の死骸を見て悲しむ(しかしそれは自分には関係のないことだと言い聞かせる)、という描写からはむしろその繊細さを読み取れる。
 いわゆる意地悪ベンチを作る思想を嫌悪しているところからも、あらゆる差別に全くの無関心なわけではないのだろう。
 本当は圭は作中で誰よりも繊細で、誰よりも傷ついているのではないだろうか。それを露悪的な言動で包み隠して佑基とのふたりの生活に耽溺し、それ以外の他人のことは全て自分には関係ないと線を引くことでバランスをとって生きている……。

 圭たちは実際、鈍感というより諦めているのではないだろうか。他人に分かってもらうことも、認められることも、というか、分かって「もらう」必要なんてそもそもない。認められたいと思うほどに社会のことも周囲のことも圭自身が認めていない。最初から一切の期待をしていないのだ。

 一見飄々として見えるふたりが初対面から気の合わなかったれいちゃんとの関係を年単位で切れず、実質的アウティングという決定的な出来事が起き、それからさらに四ヶ月も我慢し、もう耐えきれない、というところに至ってようやく決定的にシャットアウトする、という顛末からもそれは如実に読み取れる。
 彼らはずっと逆恨みによるアウティングや攻撃を危惧して迷惑な相手にも可能な限り丁寧に対応していたのだ。構造的差別のある状況で、マイノリティが受ける不利益や抑圧がむしろきちんと描かれている。

 れいちゃんはあくまでアライであって当事者ではないから、彼らの恐怖が想像できない。自分が彼らと全く対等ではなく、脅威にすらなりうるということの想像力が一切ない。
 同級生である佑基のみならず、年功序列規範の強い日本では通常なら強者となるはずの年上男性の圭も、自身がゲイであるという「秘密」を握られているという一点で劣位に置かれている。
そしてその秘密は、少なくとも圭にとっては暴露されると平穏な生活が壊されかねない致命的なものだ。

 アライであるという自認によって同列の仲間であるように、更には同等の傷を負っているのだというふうにまで勘違いをしているように見えるれいちゃんは、だから当事者からするとほとんど恐れるべき無敵の人だ。
 差異を超えたシンパシーを基に連帯すること自体は良いことであろうが、自分と圭たちの間に越えようのない制度的不均等があり、権力勾配が生まれていることに気づかず(この一点において彼女にアライを自称する資格はないと考える)、あたかも自分こそが当事者以上に傷ついているというふうにクィアの苦しみにフリーライドし、自らがカタルシスを得るための「活動」を強要し続けるのは加害的としか言いようがない。
 当事者に対して偉そうに演説をするところなんか、マンスプおじさんそっくりである。

 れいちゃんの人物像についてもう少し考えたい。
 すぐに謝る自信のなさ、〈私っていつもそうで。いつも変なことを言ってしまってはひとの気分を害してしまって(P52)〉との台詞から、彼女は自分のコミュニケーション能力が高くないことを自覚している人物だ。「正しい」言動を選び取るのが難しいからこそ、社会的に正しいとされているアライ活動にのめり込み、「正義」を発露し〈誰かのために行動する〉ことで承認欲求を満たしている、ある種のメサイアコンプレックスを抱える人物であると読んだ。
 自身の生きづらさをクィアのそれに重ね、「同じ痛みを抱える仲間」のようにシンパサイズしてもいるのだろう。人物造形には説得力がある。

 その一方で、朝井リョウ『正欲』などの先行作品においても感じたことだが、「独善的な正義を押し付けてくる迷惑な人」の役割が創作において女性ばかりにあてがわれるのはジェンダーステレオタイプを感じはする。もう少し範囲を広げると「お節介おばさん」「うるせえ学級委員長」などに類する、女性の正義感やアクティビズムそのものに対する冷笑・ミソジニー的ステレオタイプに接続しているように感じ、危ういと思ったのが正直なところであるし、一読した際、せめて作中随一のまともな大人である課長を女性にしてバランスをとっても良かったのでは……と、個人的な感想として思った。だが、だからと言ってこの小説に対してジェンダーへの目配せもするべきだ、などと言うつもりは一切ない。なぜならこの小説はそれぞれの人物が属性を背負ってその代表として立ち回り社会を刺すためのものではなく、ただ圭と佑基と、れいちゃんを含むその他の人間たちのごく個人的な日常にフォーカスしたごく個人的な物語だからである。

 前述したように、ミソジニーやジェンダーステレオタイプについては創作物全般、ひいては社会全般に蔓延るものであって、この小説のみの瑕疵ではない。この世に溢れかえる「マジョリティ小説」が多様な女性表象を描くことでそのステレオタイプを打ち破っていさえすれば、「こんな女もまあいるよね」となんの引っ掛かりもなくこの小説を読めただろう。実際にどこかには居はする、、、、のだから。

 クィアに限らずマイノリティを描いた小説は、「普通の」小説以上に主人公の人格をジャッジされたり、物語自体の品行方正さやメッセージ性を問われることがままある。圭や佑基が徹底して露悪的に振る舞うこの小説は、そのような抑圧にこそNOを突きつける。構造的差別がある世界で、その解消までもをマイノリティ自身にあたかも義務のように負わせることが暴力でなくてなんだろう。
 社会と戦うために存在しているわけではない。何者をも代表しない。教科書でも題材でもない。もちろん清廉潔白な天使でもない。平たく言うと圭たちはただの社会生活者で、平和に暮らしたいだけの人間だ。

 もしこれがレズビアンカップルだったらもっと違う物語になっていただろう。先進的な圭の会社だが、女性社員に対しても婚姻規範の押し付けやライフプランへの言及などせず、同じ態度を取ってくれるかどうかはわからない。ゲイカップルであっても、これまでに運悪く、、、差別経験に傷つけられたり生活を阻まれたりした経験のある者たちであれば、社会に対する問題意識もまた違うものになるはずだ。だがそれは圭たちの物語ではないし、圭たちには関係のないことだ。

 だからいつか、そのような物語も読みたい。圭たちには関係のない、レズビアンカップルの、別のゲイカップルの、ノンバイナリーやトランスの、Aスペクトラムの、それぞれの立場の様々な性格の人間たちのパートナーシップに基づいた他愛のない個人的な日常の物語がたくさんこの世に溢れてほしい。その中には当然圭よりも露悪的な人間がいるだろうし、れいちゃんよりもとんでもない正義モンスターだっているだろう。多種多様で膨大な「ストレート小説」「シスヘテロ小説」があるのだから、それと同程度に多種多様で膨大なクィア小説は生まれうる。
「流行りの」という冠がつかなくなるくらい彼らの多様な物語が溢れ、圭たちがただのよくあるカップルとして埋没できたとき、彼らの平穏な日曜日は本当の意味で守られるだろう。
 そうなるように活動すべきはもちろん、当事者個人たちではなくマジョリティ社会の方だ。


 れいちゃんとの決別のために佑基に残酷なことを言わせてしまったことを悔いた圭が、敢えて鳩の死体を跨ぐ佑基を見て〈佑基を壊してしまったのは私だ〉と考えた圭が、れいちゃんからのプレゼントを投げ捨てる佑基を〈こういう下品なことができるようになってかわいいね〉と露悪的に肯定し、〈狂ったように笑い〉、そうやって自分たちを社会から切り離し、平穏なふたりだけの日常に戻っていく姿はとても悲しくて、最初の方に抱いていた微笑ましいカップルの世界、という印象に不穏な影を落とす。せめて来週も再来週も、ふたりの幸せな日曜日が続くことを祈っている。

※〈 〉は小説からの引用を、「 」は筆者による語句・文言の強調を意味します。


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冒頭の試し読みができます。未読の方はぜひ。


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