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善について。
僕にとって善とは
「他者を侵害しないこと」だ。
僕はこの歳になってようやくその結論に辿り着いた。
しかし以前は真逆だった。
人と関わって、愛して
それこそが善だと思っていた。
いや、そう思いたかったのだろう。
なんという思い上がりだろう。
自分が人を愛していいという、大きいが極個人的で極小規模な誤解だ。
その誤解の結果僕は他者を好きなだけ踏み躙ってしまった。
大勢の優しい人たちの顔を曇らせてしまった。
僕にそんなことをしていい権利なんてものはない。
愛(という名前の思い込み)(人によってはそれを狂気だとか愚昧だとか言うこともある)は罪の免罪符にはならない。
地獄じゃあそんなもの便所の紙にもならないだろう。
できることなら皆のところまで歩いて行って、一人一人謝ってまわりたい気分だ。
でも許されたいだなんて傲慢というものだ。
贖罪なんてものはないのさ。
僕はもうそんな生き方はしたくない。
「愛の為に生きよう!」「愛こそ全て!」
馬鹿馬鹿しい。
そんな当たり前のことをいちいち大きな赤文字で旗に書いて道行く人々を殴るような真似はするな。
今の僕の結論が正しいとは言えないかもしれない。
でも間違っているなんて誰にも言えないはずだ。
真の共存とは僕から他者への絶対的な不可侵なのかもしれない。
その思想の結果、僕は自分から人と関わることに積極性を持てなくなったけれど
これでいい。
これでいいのだ。
もうこれ以上他者を侵害しなくとも済む。
これでいい。
これ『が』いい。
自分が孤独だとも思わない。
僕の人生に一番必要だったものは他者からの愛ではなくて他者への侵害の不在だったのだろう。
これが僕の善だ。
これが僕だけの正しさだ。
どうか僕のことを哀れな人だとは思わないでくれ。
僕は今とても幸せな気持ちで生きていられるんだ。
寂しいとは思わないでくれ。
この答えこそが愛だよ。
これが、僕のこの感情こそが安寧だよ。
過去の僕がこの結論を知ったらどう思うだろう?
でもそんなこと知ったことか。
正しく生きよう。
正しく生きるということは
善に殉死するということだ。
正しく生きるということは
現在過去未来に存在する全ての愛すべき隣人の為だけにひとりで死ぬことを受け入れることだ。
善いことをすると胸の一番真ん中の一番深いところがなんだかむず痒くなって、ふわふわした気持ちになるというものだ。
全身の毛が逆立って、身体中の全ての血液が少しだけ温まって
嫋やかに沸騰していく。
それは雪の大地を歩いて旅している疲れた旅人の心を唯一癒すことができる最高に優しいシチューのようなものだ。
きっとたくさんの具材(マトンだとかジャガイモだとか、あなたの好きな具材を好きなだけ鉄鍋に放り込んだっていい)がごろごろ入っていそうなものだ。
暖炉に火を点けて、どうぞゆっくり眠ってください。
自身の善行によってついた幸せな溜め息でこの世のものとは思えない程に美しい花だって咲かせてやれる気分になる。
それこそ赤子も泣き止むような美しい花を。
そして世界中の武器を花にしてやってもいい。
全ての争いを無くせるような気分にだってなるのだ。
刃物で人を刺しても刀身は花なので身体は傷つかないし、銃を撃っても銃口から出てくるのは弾丸ではなく一輪の花だし(手品のような)、爆弾が起爆しても辺りに散らばるのは沢山の花束だ。
その美しい花を全ての人(満たされた人にも、そうでない人にも)に直接渡して回る為に世界旅行をしたっていいとも思える。
そんな嬉しい誤解なら、他者の首を絞める為のロープを本人たちの目の前でにたにたと笑いながら編み続けるような誤解より幾分かマシというものだろう。
どんな悪人の中にも善の一欠片は在るということを
あなたはわかっていてください。
あなただけは。
どうか
どうかお願いします。
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