見出し画像

いつか見た風景 4

「夜の監視人」

 トイレから出ると、ちょうど私の息子を名乗る怪しい男が帰宅した。    最初は警戒したが、案外気が利くいい奴だ。夕飯はどうやら毎日奴が当番のようで、何か買って来てくれたり、週に何回かは台所で料理も作る。奴は時々マシンガンみたいに話すから、何を言ってるのか全く分からないこともあるけど、後から必ず「別に怒ってる訳じゃないからさ」って気まずそうに言って来るんだよ。きっと何かやましいことでもあるんじゃないかな。そうそう、夜はリビングのソファに陣取って、寝るんだか寝ないんだか。思い過ごしだといいけど、隣の私の寝室をまるで監視しているような気配を時々感じるんだ。深夜にトイレから戻るついでにちょっと台所に立ち寄ったりすると、必ずと言っていいほど声をかけて来るしね。それも「またお腹空いたんですか?」とか「冷蔵庫には何もありませんよ!」とか、まるで私が夜中に盗み食いでもするかのような言い草だからさ。百歩譲ってたとえそうだったとしても何を遠慮することがある。ここは私の家なんだから、私の好きにして何が悪いんだよって奴に言うと、「それじゃ便秘が治らないですから」って判で押したように同じセリフが返って来るんだ。怪しいのは奴の方だから、監視したいのは本当はこっちの方なんだよ。だけどそんな事にいちいち構ってられないからさ。貴重な時間を余計な事に使いたくないからね。何しろ私は今、新しい私自身を設計し構築している真っ最中なんだから。


画像1


 それで今晩の酒の肴はコイツなんだな? ちょっと仕事が遅くなってスーパー寄ったらいい刺身がもうなかったって奴が言ってるけど、まあ仕方ないさ、そういう日もあるからね。それにしてもお行儀よくみんな並んでるな。こんなに窮屈なのに、文句の一つも言わないで。なんだ油まみれじゃないか。保湿は大事だけどこいつはちょっと行き過ぎだな。どれどれ私も仲間に入れてくれないか。ブルーのちょっと可愛いデザインが目を惹く少し大振りなオイルサーディンの缶詰の中で、ギュウギュウに重なり合ってこっちを見ているイワシたちの端っこに、私は箸で強引にスペースを開けた。大丈夫だよ、昔は大体どこでもこんな感じだったからね。通勤電車も会社の中も、家に帰って来たって大して変わりはなかったから。何でも満員で、どこも過密で、川の字が当たり前の世界だよ。ところでお前さんたちはどうなんだい? 実際のところ大海原で自由に闊歩していた頃が懐かしいなんて思ったりするのかな。そうかそうか、運命って奴か。そうだな、そう言う大自然の運命なら私にもあるぞ。だけど最近思うんだよ。そういうのがいっぱいあって賢くなるんだって。人生窮屈だって喧嘩しないようにさ。潤滑油だよ、潤滑油。私も毎晩つけてるからさ。私のは植物由来の奴だけどね。ところで一つ訊きにくい事を聞いてもいいかな。みんなはこんな姿になる前にさ、どんな夢があっのかなって、ちょっと気になったものだからさ。


画像2


 えっ? 私の夢かい? 私だって昔は夢の一つや二つはさ、そりゃあったもんだよ。大海原を自由に闊歩してさ、鯛やヒラメに恋の一つもしちゃってさ、竜宮城で深海のお姫さんに怒られたりしてさ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?