自責と他責からGiveの有り様について考える

きっかけはこのツイートです。

これを見て私はどこにいるのだろう?と思ったときに、私はわりと右上のCの人間だなあと思った。いや、全然鬱ではないですが。

というのも、私は「とりあえず周りの人に優しくしておけば、どっかで何かしら助けてくれるだろう」という考えを持っていて、「多分この人は恩を仇で返すだろうな」という人からは距離を取る人間関係を作ってきたからだ。

全方向にむやみやたらと親切なのは自分をすり減らしてしまうし、自分のリソースには限りがあるから、ある程度はこれでいいのだろうけど、もう少しちゃんと目的というものを見据えたほうがいい気がする。


私は「やらぬ善よりやる偽善」という言葉がわりと好きで、なんならWinWinだと思っているのだが、それはちゃんと意図があって相手に益があるからこそ成立するものだ。

自分がGiveしていると思っても相手がそれを望んでいなければ意味がない。それを考えずに、ただ自分が与えていると思い込んで「私はこんなにやってあげているのに!」という思考になってしまうと、上の図でいう「いわゆる他責」になってしまう。

Giveの与え方がうまい人というものは存在していて、まさに欲しているタイミングで欲しいものを与えてくれるのだ。そういうGiveというのは、本当に些細なことで「落ち込んでいるときに遊びに誘ってくれた」とか「ちょうど自分の悩みにフィットした話をしてくれた」とか、相手は意識的に与えたとは思っていないであろうことも含まれる。

じゃあどうやってうまくGiveをしようかと考えると、「相手の視点に立つ」という思考、「相手の反応を読む」という洞察を繰り返して精度を上げることなのかなと思う。落ち込んでいるときに慰めてほしい場合もあれば、ただ話を聞いてほしい場合、何も知らないかのように接してほしい場合もある。こればかりは経験による推察、実際働きかけたときの反応を見るしかない。

これによって相手の望みに寄り添うことができれば、コスト対効果が高いGiveをできるようになるのだろう。

そして、それを繰り返していくことで「自分はそんなに大したことはしていないのに、相手に感謝されて相手も自分のために何かをしてくれる」とプラスのサイクルが回るようになるはずだ。


という、他責解決法を考えてみました。私の思考は人間関係を考察する方が得意なのでこういった方面になるのですが、システムとかそういう話になるとまた変わってきそうです。

……まあ、とりあえずこの理論をちゃんと実践できるように頑張りまーす。

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