見出し画像

【連載小説】「緑にゆれる」Vol.83 第八章

 記憶を失うように眠りこけて、目が覚めたのは、昼も近くになってからだった。ただいま! と元気に叫ぶ圭の声。一瞬、夕方まで眠ってしまったのかと思ったが、今日は確か給食の終了日で、食べたら帰って来る予定だった。のろのろと立ち上がって伸びをして、デッキから店へ向かう。今日は弁当の販売のみで、三時からカフェの日だ。大きなガラス戸を開けると、二階へ上りかけた圭が目を丸くした。

「あれ、カケルさん、今起きたの?」
「まぁな」
 髪をなでつけながら、目線をどこへともなく逸らす。もとへ戻すと、今度はキッチンの向こう側にいた美晴と目が合って、また目を逸らす。今日は目のやり場がない。

「あの、お弁当」
 上ずってかすれたような美晴の声が耳に届く。
「まだ、ありますから」
「あぁ」
 なるべくさりげなく。カウンターから、弁当を一つとって、ズボンのポケットから小銭入れを出す。美晴の手の平に、落とすように代金を支払った。よく見ていなかったので(たぶん、向こうも)百円玉が一つ、手から転がり落ちた。
「あ」
 カケルより先に、圭がそれを拾った。圭は、不思議そうな顔をして二人の顔を見比べると、百円玉を美晴の手に押しつけるように渡した。
「ちょっと、仕事してくる」

 何だかその場にいるのがいたたまれず、離れに引き返した。仕事、と口にしたものの、連絡待ちの身でもあり、当然はかどるわけもなく、カケルは弁当をかみしめながら、ただ夢のような昨夜のできごとを反芻していた。ふと、窓から外へ目をやると、隣の家の桜の青葉が揺れている。彼女の作った味。くちびるに、口の中に、彼女の幻影をたどる。
思えば、味覚が、彼女の記憶を呼び覚ましたのだ。桜の花びらが舞い散る下で。

 昨夜の長いくちづけに、桜の花びらの乱舞が重なる。けれど今は花も散り果てて、あとかたもない。日常を淡々とこなす彼女には、昨夜の気配をまるで感じない。いつもと変わらない夕食の風景を目に映しながら一人思いを巡らす。
 これは、一体どういうことだろう。
 いつものように、夕食後、コーヒーカップをキッチンに戻す。美晴はシンクに向かって皿を洗っている。コーヒーカップは、カチャン、と鋭い音を立てて流しに置かれた。そのまま背を向ける。せまいキッチンで、自分のシャツの背中が、彼女のそでに触れる。そのとき、カケルは肌で感じた。微かに、触れ合った二人の表皮がみるみるうちに熱を帯びてくるのを。

 カケルは前を見つめたまま立ち止まった。
 変わらないようで、変わってしまったんだ。
 なぜなら、もうカケルは知ってしまった。

彼女が、くちづけの合間に、どんなため息をつくのか。くちづけた耳もとや首すじがどんな色に変わるのか。
桜は、その幹の皮の下に、本当の色を隠しているという。
もっと、深く、彼女を知りたい。

 まるで、何か見つけた獲物を捕まえるかのように、カケルは振り向きざまに、後ろから美晴を抱きしめた。
 美晴が洗っていた皿が、その手を放れ、ゆらゆらと揺らめきながら、たらいの底へ沈んでいくのが見えた。
「……放して」
 美晴が、小さい声で言った。

「いやだ、と言ったら?」
 カケルは、美晴の首に鼻をうずめた。

「放してくれないと……。お皿が洗えない」
「おれが後で洗うよ」

 美晴は、手を伸ばして水道の蛇口を止めた。
 それは、合図に思えた。

 カケルは、抱きしめていた腕をほどいて美晴の肩をつかむと、こちらを向かせて顔を寄せた。
「だめなんです」

 美晴は突然、そう言うと、うつむいてカケルの両腕を強くつかんだ。自分の勝手な予想とは全く逆の反応に、カケルはとまどって、うなだれた美晴の後頭部をまじまじと見つめた。

Vol.82 第八章 へもどる      Vol.84 第八章へ つづく
↓ 一気読みしたい方はこちらへどうぞ!


読んでくださって、本当にありがとうございます! 感想など、お気軽にコメントください(^^)お待ちしています!