【考察】米津玄師『diorama』より「街」


「ハチ」から「米津玄師」へと名を変えて出した、一番最初のアルバム「diorama」。2012年5月16日発売。作詞、作曲、編曲、歌、演奏、動画、アートワーク、ミックスを全てひとりで手がけている作品。たったひとりで全部手がける、それだけでもすごいのに、これがまた、たいへん奥が深い作りになっています。

CDジャケット(画像参照)の、街を乗せた魚。まさに、この絵の世界の中の出来事を14曲に渡って、絵本のように、物語のように綴られているのです。

そして、この魚はナマズです。ナマズと言えば、地震……そう、2011年3月11日の東日本大震災の影響も多分にある作品であるとも言えます。

それでは、まずは1曲目から、歌詞を交えて紐解いていきましょう。


【1.街】

物語の始まりは、単音ギターの重なりのフェードイン。そして、徐々にマーチのリズムに乗って、まるで凱旋のように音楽が現れます。「街」の登場です。

街の真ん中で 息を吸った 魚が泣いた

歌詞の出だしです。これだけ、このジャケットの絵に相応しい始まりは無いと思いませんか?この、魚の上にあるジオラマの街には、当然のように住人がいるのです。

全て変わってしまった 砂が落ちた 生活が落ちた

この曲の主人公に、なにがあったのか。そんなことを想起させます。そしてそれが、東日本大震災なのではないか?とも読み取れます。


透明な朝に心像と 何でもないような情操を

愛を食べて動けない君へと

大きすぎる灯りに 逃げ出さない憔悴に

抗わない日常を返したい


その献身の先へ 心は行く 強く

その諦観の奥へ 言葉は行く 深く

ほら 君の疑うものすべて

いつの間にか 君から抜け出した君だ

「君」とは一体誰なのか。主人公は何を返したくて、「君」にエールと釘を刺すとも思える言葉を与えるのか。

私には、「君」が被災者の方に見えて仕方ありません。各地からの支援物資(「愛」)に囲まれていても、その場から動けない被災者たちに平和な日常を返したい。「どんなに悲惨なことがあっても、生きてほしい」というエールを伝えたい。そんなふうに見えてしまいます。

しかし、純粋に「ジオラマの街の住人」に向けての言葉であるとも取れる気がします。震災を抜きにしても、このジオラマの街の住人たちは「全て変わってしまった」のですから。ジオラマの街から、「生活が落ちた」のです。主人公は、それを見ていることしかできない……もしくは、同じ状態にいるのかもしれません。

引っかかるのは、最後の釘を刺すとも思える言葉です。「ほら 君の疑うものすべて いつの間にか 君から抜け出した君だ」。これは、ジオラマの街の住人でも、被災者に向けてでもなく、米津氏自身に向けて唄っているのではないでしょうか。

「コミュニケーションが苦手だ」と、米津氏は各所のインタビューで答えています。コミュニケーションが苦手な人は、疑いを持つことで自分を護ります。しかし、疑うものはすべて真実であることも解っていて、その疑いの殻から抜け出せない自分のことを指しているのではないでしょうか。


このような、複雑に絡み合ったたくさんの意味のある言葉の裏では、街の雑踏を、崩れ落ちていく生活を、魚の鳴き声を表すような、がちゃがちゃとした音が鳴り続けています。メロディをとるヒントはベースの音しかない、と言っても過言ではないです。その中で異様な雰囲気を醸し出しているのは、絶対にズレなくて変化のない、スネアドラムの淡々と刻まれるマーチのリズムです。刻々と冷淡に過ぎ行く「時間」の流れを表しているのでしょう。



ここまでが1番で、間奏が入ります。

8ビートに合わせて、「ララララララララランララララララーラ」 と、前半のラララは不穏な、後半のラララは安心の、米津氏の唄うメロディが入ります。不穏と安心の繰り返しは、とても不安になります。不安定な魚の上にある街、震災の被災者の方たちの不安、米津氏自身の不安が全て詰まっているのではないかと思います。

また、ハチの時代を含めて米津氏の音楽には「ラララ」や「パパパ」等、意味の成さない言葉でのメロディが多く使われています。米津氏の中では、音楽が、メロディが、言葉にならないほど溢れているのでしょう。

歌曲王・シューベルト好きな私にしてみたら、米津氏はシューベルト並の天才であるな、と感じます。


街の真ん中で 息を吐いた 魚が泣いた

喉を締めあげて 歌を歌った 星の様に降った

曖昧な夜の喧騒も 耐え切れない日の慟哭も

愛を食べて動けない君へと

小さくなった言葉も ぼんやり飛んだ電波も

知りたくないことを押し付けてさ

その勾配の先へ 心は行く 強く

その幽閉の奥へ 言葉は行く 深く

ほら 君は一つずつ治しながら生きているよ

今 懐かしい朝の為


以上が2番の歌詞です。1番をなぞるような作りになっており、やはり、ジオラマの街の住人、被災者の方たちへの言葉、そして最後は米津氏自身に向けての言葉に読み取れます。

ただ、マーチのリズムが無くなり、間奏からの繋がりのように8ビートで2番は始まります。歌詞の内容は変わらず昏いのに、何故か明るく聴こえます。それは「歌を歌った」 からなのだろうな、と私は漠然と捉えました。何故なら、その次の「曖昧な夜の喧騒も……」 から、またマーチのリズムが始まるからです。そして、サビの「その勾配の先へ……」から、また8ビートが始まります。1番とは違う曲構成には、「希望」 が少しだけ多めに入ってることを表しているのではないでしょうか。少しだけ、光が見えているのです。刻々と進む残酷な「時間」を、自分のリズムに変えて生きていく。そんな決意すら見えます。


曲構成としてはこの後に、楽器のみの、不安を煽るような、「それでも安心して、大丈夫」と言われているような間奏が入り、1番のサビ(マーチのリズム再来、でも何故かそれは明るく聴こえる)をもう一度唄い、最後に

意味なんてない 退屈で美しいんだ

今 変わらない朝の為」

と唄い、例の「ラララ」が入り、音数が少なくなっていってこの曲は終わります。

ここの最後の言葉と「ラララ」を含めたアウトロでは、楽器の音数の変化がキモである、と思います。

意味なんてない 退屈で」 まで、ギターのみの伴奏となります。米津氏の一番言いたいことって、ここなのではないでしょうか?正確にはその後の「美しいんだ」まで、だと思います。生きていればいろいろある、でもその全てはそのうち意味を成さなくなり、日常という退屈がまた待っている。それが、世界で一番美しい。私には、そんなメッセージに聴こえます。

この後の「ラララ」も、不穏と安心の繰り返しですが、ベースの音がなくなることで、だいぶ軽く聴こえます。米津氏にとっての「日常の音」です。

そこから急にギター一本となり、物語は終わります。フェードアウトではなく、カットアウトに近い終わり方です。これから、この「街」での物語が始まるのです。

#音楽 #米津玄師 #考察 #diorama #街

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