エネルギーをもらう、という言葉に感じる違和感


よく、「エネルギーをもらう」という言葉をきく。

私の周りにも、この言葉をたびたび口にする人がいる。

私はその度に、何となく違和感を感じている。

その言葉をよく口にする人に対して私は、

たぶん相手はエネルギーをあげているつもりはないだろうから、あなたが勝手に搾取しているだけなんじゃないの?

と思ってしまう。

エネルギーに溢れている人からもらうのならいいのかもしれないが、この、「エネルギーをあげる、もらう」というのは、あまり健全ではない側面があるように感じる。

周りからエネルギーをもらうという人は、たいてい自分のエネルギーを簡単に人にあげているように思う。「〜してあげる」というスタンスで関わる人が多い。だから自分のエネルギーがいつも枯渇し、人にもらわなくてはいけなくなる。

ただ本来、エネルギーは、あげたりもらったりするものではなく、内側から湧いてくるものではないだろうか。少なくとも私はそう感じている。

子どもの純粋なエネルギーに触れ、自分のなかにある純粋なエネルギーが呼び起こされる。

力強いアートを観て、作者の内なるエネルギーや感性に触れ、感性が呼び起こされ、自分も何かやりたくなるとか。

化学反応を起こすようにして、新たなエネルギーが生まれる。この方法ならエネルギーの取り合いは起こらない。

ソーシャルワーカーの援助技術のなかで、「エンパワメント」という言葉がある。相手を、勇気づける、力づける、という意味で、その人が本来持っている力を引き出すというものである。

援助する対象者を、何かをしてあげないといけない相手としてではなく、本来自身の力を持った人として、対等な立場で援助するというものである。

対人援助の仕事のなかでこのことを叩き込まれてきた私は、自然と、〜してあげるというスタンスに違和感を持ってしまう。

同じ職種でも、「〜してあげる」とか、相手に対して「かわいそう」という言葉を何の意識もせずに使う人がいる。

言葉というのは現実をつくる。

「~してあげる」と言った時点で、依存が生まれる。

「かわいそう」と言った時点で、上下関係が生まれる。

そういった言葉を聞くにつけ、改めて自身のスタンスを見直す機会となっている。

エネルギーも気軽にあげたり、勝手にもらったりするものではない。

すべては、自分のなかにあるものだから。援助する人もされる人も、そのことに気づくことが大切なんじゃないかな。

覚え書きとして記しておこうという気持ちもでもあるが、本当は、もっとそういったことの大切さをわかってもらいたい人たちがまわりにたくさんいる。

まだまだ癒えない傷を負った人がいっぱいいる。
ほんまえーかげんにせーよ(誰に言っているんだか)!


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