霧の向こうの影
1785年、ロンドン郊外の村チェルシー。霧深い朝、テムズ川のほとりで一人の男性の遺体が発見された。被害者はジョージ・ハントン、この地方でも指折りの裕福な地主だった。
現場に駆けつけたのは、チェルシー村の治安判事ウィリアム・ブラックウッド。黒髪に鋭い灰色の目をした40代の男性で、その洞察力の鋭さは村中に知れ渡っていた。
「どうやら首を絞められたようだな」とブラックウッドは呟いた。被害者の首には明確な絞痕が残されていた。
「しかし、奇妙なことがある」と、助手のトーマスが指摘した。「ハントン氏の衣服が濡れていないのです」
確かに、川のそばで発見されたにも関わらず、遺体の衣服は乾いていた。これは何を意味するのか。ブラックウッドの頭の中で、疑問が渦巻き始めた。
さらに不可解だったのは、ハントン氏の右手に握られていた一枚の紙切れだった。そこには意味不明な文字列が記されていた。
"BMFY XJQQ GJ AJWNJI DT YMJ WTXJ LFWIJS"
「暗号か?」ブラックウッドは眉をひそめた。「これが何を意味するのか、解読せねばならんな」
調査が進むにつれ、ハントン氏の複雑な人間関係が明らかになっていった。
まず浮上したのは、隣地の地主エドワード・フェアファックスとの確執だった。二人は長年にわたり土地の境界線を巡って争っていたという。
「ハントン氏は強欲な男でした」とフェアファックスは語った。「私の土地を少しずつ侵食しようとしていたのです」
しかし、フェアファックスの目は落ち着きがなく、何かを隠しているような様子だった。
次に、ハントン家の使用人たちから興味深い証言が得られた。
「旦那様は最近、誰かと密会を重ねていました」と、年老いた執事が証言した。「深夜に屋敷を抜け出すのを何度か目撃しました。そして、毎回同じ方角に向かっていったのです」
執事の言う「同じ方角」とは、村はずれにある古い修道院跡地だった。そこには今でも廃墟となった建物が残っており、地元の人々は不気味がって近づかない場所だった。
ブラックウッドは修道院跡地を調査したが、そこで驚くべき発見をする。廃墟の一室に、錬金術の実験道具が隠されていたのだ。
「まさか、ハントン氏は錬金術を?」
さらに不可解だったのは、その部屋の壁に描かれた奇妙な図形だった。円の中に五芒星、そしてその周りを取り巻く不思議な文字列。それは、ハントン氏の手に握られていた紙切れの文字と同じものだった。
そして、最も衝撃的だったのは、ハントン氏の妻エリザベスの態度だった。
「夫の死を悼む様子が全くない」とブラックウッドは不審に思った。
エリザベスに事情を聴くと、彼女は意外な告白をした。
「私は夫を愛していませんでした」と彼女は冷たく言い放った。「彼は私を玩具のように扱い、他の女性たちと関係を持っていたのです」
しかし、エリザベスの言葉には何か引っかかるものがあった。彼女の目には、悲しみよりも恐怖の色が浮かんでいたのだ。
捜査は迷宮入りしかけていた。動機はいくらでもありそうだが、決定的な証拠が見つからない。そんな中、ブラックウッドは一つの仮説を立てた。
「もし、殺害現場が川辺ではなかったとしたら?」
彼はハントン家の屋敷を再び訪れ、細かく調査を行った。そして、書斎の絨毯の下から微かな血痕を発見する。
「ここで殺害され、死体は後から川辺に運ばれたのだ」
しかし、そこで新たな疑問が生じた。なぜ犯人は死体を移動させる手間をかけたのか?
答えは、思いもよらぬところにあった。
ある日、ブラックウッドは村の酒場で、船乗りたちの会話を耳にする。
「あの夜、川で奇妙なものを見たぜ」 「ああ、俺も見た。月明かりに照らされた白い影だ」 「いや、影じゃない。幽霊だ。修道院の廃墟に出る幽霊そっくりだった」
ブラックウッドは直感した。「白い影」とは、夜の川でボートを漕ぐ誰かの姿だったのではないか。そして、その「誰か」は修道院の幽霊に扮していたのではないか。
捜査はさらに複雑な様相を呈していった。
村の古老から、百年以上前にこの地で起きた惨劇の話を聞いた。修道院で若い修道女が殺害され、その犯人は処刑されたという。しかし、処刑された男は最後まで無実を主張し、「真実は薔薇園に眠る」という謎めいた言葉を残したという。
「薔薇園?」ブラックウッドは思わず声に出した。そして、ハントン氏が握っていた暗号を思い出す。
必死に解読を試みた結果、その暗号は次のような内容だった。
"TRUTH WILL BE BURIED IN THE ROSE GARDEN" (真実は薔薇園に埋められる)
全てが繋がった瞬間だった。
ブラックウッドは、ハントン家の裏庭にある薔薇園に向かった。そこで彼は、土の中から古い箱を掘り出す。中には、百年前の殺人事件に関する衝撃的な証拠が隠されていた。
そして彼は、事件の真相にたどり着く。
ハントン氏は、自分の先祖が百年前の殺人事件の真犯人だったことを突き止めていた。そして、その事実を隠蔽しようとしていたのだ。しかし、誰かがその秘密を知り、ハントン氏を脅迫していた。
最終的に、真犯人はエリザベスではなく、フェアファックス家の使用人だったことが判明した。彼は、百年前に処刑された無実の男の子孫だった。復讐のために、ハントン氏を殺害し、その死体を修道院跡地から川辺へと運んだのだ。
しかし、それで全ての謎が解けたわけではなかった。
なぜハントン氏は錬金術に手を染めていたのか。 エリザベスの目に浮かぶ恐怖の正体は何か。 そして、修道院の廃墟に現れる「幽霊」の正体は。
これらの疑問は、まだ霧の中に隠れたままだった。
ブラックウッドは窓辺に立ち、霧のかかったテムズ川を眺めながら思った。 「真実の一部は明らかになった。しかし、まだ多くの謎が残されている。この事件は、まだ終わっていないのかもしれない」
霧の向こうで、何かが動いたような気がした。しかし、それが何なのか、ブラックウッドにはわからなかった。
彼は、まだ見ぬ真実を求めて、再び霧の中へと歩み出すのだった。
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