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森鴎外『舞姫』

興奮冷めやらぬ。
ふと手にとって体勢も変えずに読みとおした夜から、数日。
『舞姫』再読の衝撃は、なかなか薄れない。

『舞姫』とのはじめましては、たしか高校3年生。高3の現代文の教科書に載っていたような気がする。当時のわたしには、まったくと言っても過言ではないほど、わからなかった。話の筋を追うので精一杯。登場人物の心の機微に触れるどころではなかった。

はじめましてから何年も経った今、再び読み直そうと手に取ったのは、おもしろいはずだという信頼の種が撒かれていたからだ。教材として出会った『舞姫』をおもしろがることができなかったけれど、その授業の時間はたのしかったのだと思う。その証に、教材として配られたプリントには小さなメモがある。ちょっとうかれた細かい字。当時のわたしは、きっといそいそとこの字を書きこんでいたはずだ。

今はわからないけれど、いつかわかるときがくる。「わかるときがくる」=「大人の仲間いり」、そんなふうに思っていたかもしれない。
あこがれの種が撒かれていたんだ。そして芽がでたのか。


主人公の豊太郎は25歳。親の期待、学校の期待、職場の期待、さらには国の期待を背負ってベルリン留学に赴く。少なからず、自分への期待と誇りも胸に。

僕はなんだか功名心と自制に慣れた学習意欲とを持って、たちまちこの欧羅巴の新大都の中心にたっていました。私の目を鮮やかな光が射ぬきました。私の心を美しいものたちが迷わせました。

なんどもなんども読み返しては、どうにも形容しがたい気持ちになるこの箇所。ヨーロッパの地に降り立った豊太郎の目に映った街の景色と彼の胸中をおもうと、自分のことのように、いても立ってもいられない気持ちがしてくる。

留学生活を経験するまでの豊太郎は、言葉は悪いけれど「くそまじめ」だ。でもそれこそが、彼をそこまで生き抜かせた原動力であっただろうし、文字通り脇目も振らずに努力できる彼だったからこそ、華々しい留学の切符を手に入れたのだ。「くそまじめ」はわるいことばかりじゃない。

日本から出かけていった先のヨーロッパは、陽の色も違えば、出会う人の髪や目の色も違う。なにもかもがあたらしい毎日をすごして、豊太郎はそれまでとはちがった「華々しさ」を知ることになる。エリスにだって、出会った。

四半世紀かけて培ってきた華々しさと、あたらしくて、かけがえのないものを包みこんだ「華々しさ」。両方とも知り、両方とも自分の中に迎え入れた豊太郎は、帰国する船の中で、日本で待っている母や同僚との華々しい再開に胸を高鳴らせることができない。かといって、その船に乗ることをやめ、あたらしく出会った「華々しさ」だけを選ぶことも、そのときの彼にはできなかった。


『舞姫』に、豊太郎の境遇に、いても立ってもいられない。もしもわたしがそんな高校生だったら、今のわたしも別のわたしだったとおもう。だから、後悔はしていない。
後悔はしていないのだけれど、わかるときがくるということ、そこから見渡す景色は今よりもすこし広いということを知っていたらなあ、とは思ってしまう。そもそも、そう語りかけられて心を開けるわたしだったかどうか、自信はないけれど・・・。
いま、再読の衝撃とともに眺めている景色は、高校生の時にみていた景色を否定しない。それもどれも全て包みこんで、すこし広くなり、すこし明るい。


さいごに、もうひとつだけ。
伝えるのも、受け取るのも、理解するのも、感じるのも、それが言葉という形をとるならば、たとえ同じ意味であっても表現の仕方はとてもとても大切だとおもう。

わたしにとっての『舞姫』は、高校の現代文の授業で配られたプリント、先生お手製の私訳。
そのプリントが最後まで揃っていないことは知っていた。けれどその事の重大さに気づいたのは、豊太郎がロシアに出かけるあたり。つまり、わたしの手元にあるプリントはそこで終わった。仕方なく、WEB検索で行き当たった現代語訳を読んだ。

豊太郎が、エリスが、ぜんぜんちがう人になってしまう。

先を読みたいから読んだけれど、正直、他の訳で読まなくてはならないことにがっかりした。
訳す人によって、登場人物の台詞の言葉遣いや語尾が異なる。気づいてしまえば至極当然なことだけれど、人柄や心の機微というのは、その気づかないくらいのところに滲み出るもの。


まさかこんなに経ってから、
授業に出なかったことを後悔するとは思わなかった。
先生の「現代娯訳」で、最後まで読みたいです。


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