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春陽会の現状と美術館学芸員の鼻持ちならないエリート意識

『月刊ギャラリー』(ギャラリーステーション)2023年1月〜3月号に「連続取材シリーズ〈座談会・春陽会の100年〉」という記事が掲載されました。司会は清水康友氏(美術評論家)で、春陽会からはこの会の長老であり顔でもある入江観氏(絵画部)及び高岸まなぶ氏(絵画部)、木村梨枝子氏(絵画部)、渡辺達正氏(絵画部)が出席しました。春陽会創立以来の歴史を現行会員が振り返るのですが、3月号の「第3回(最終回) 第30回展(1953年)以降の春陽会」の終盤で春陽会の現状が語られており、その部分を引用致します。なお、春陽会が洋画壇においてどういう役割を果たし、どういう洋画家、版画家を輩出してきたかについてはとてもここでは書ききれませんので「コトバンク」の項目をご参照下さい。なお、グーグル検索は全く関係の無い同名の法人が大量に出てくる上にウィキペディアの項目がいい加減なのでお勧めしません。

清水 その間に法人化の問題もありました。最初は社団法人だったんですけど、今は、一般社団法人ですよね。
高岸 一般社団法人です。
入江 最初に法人になる時には会員内には反対の意見がありました。お上の制約を受けるのかという。それで辞めた人もいたくらいですから。だけど法人になって、お上から制約があったという経験は特にないです。ただ会計を明確にしなくてはいけないという利点はあったと思いますけどね。芸術運動に何か制約になったかというと、そういう経験はないです。
高岸 社団法人法が変ってから一般社団法人になって、元に戻っているんですね。日展のように大きいところは公益社団法人ですけどね。
清水 そうした法人化の問題と共に、現在は公募団体に応募する人が減ってきているんですね。社会状況からみて、これからの公募団体を100回展を機にしてどういう風にしていくか。公募美術展がどういう在り方でいいか、公募美術展をどういう風にしたら健全に運営していけるか、これは公募団体全体で考えなくてはいけないことだと以前から思っていますが、どのようにお考えですか。
入江 僕はね、半ば本気で100回展を機に春陽会を解散するように、それを記念事業という風に考えているんだね。みんなギョッとするんですよ。僕も本音では解散する気はないんだけど、解散しないと言うんだったら、なぜ解散しないのかということを一人一人が考えなくてはいけない、どうして継続するのか、何ゆえに継続するのかということを考えなくてはいけない。それが100回展の課題だというふうに思っているので、それを繰り返し、しつこく言っている。
渡辺 組織が大きくなりすぎたんですよ。人は減少していますが組織が大きすぎる。だから経費が掛かる。このまま社会情勢が不安定になってくると、経理上耐えられないんじゃないかと。一つはその問題。そこが解決するようにコンパクトに将来のビジョンを打ち立てることができれば、存続することが可能かもしれないですけど、入江先生がいらっしゃる間は大丈夫だと思いますよ。100年の歴史で運営していますから。ところが、これから入ってくる人はそれが無いわけですから、そこの中でそれぞれが春陽会に対する情熱、熱意をどこに見つけるかが問題だと思います。新しい絵画表現を誰かが提案して打ち立てていくことができれば、まだ違うかもしれません。1971年にアメリカの文化センターでグラフィック・プリントUSAというのがありました。その時のタイトルが「大衆時代に伸びる新芸術」、ここでジャスパー・ジョーンズ、フランク・ステラとか、15、6人の版画の作品が展示されたんです。これを見て、相当の版画家が、抽象画でシルクスクリーンの新しい表現に向かったと思うんです。そういう風に衝撃を与えるような計画、立案が春陽会の版画部の中に、もしくは絵画部の中に提案されれば、存続する可能性はあると思います。もう一つは芸術文化としてのそれぞれが持つ絵画性を追求する場所、それは研究会ですね。研究会が絵画を通して人間性に深く入り込むような提案ができれば、また違う道が生まれるかもしれませんけど、だから絵画としての芸術性をどこに見つけるかという、人間を含めた考え方で、個々の作家が生き延びる道を見つけることができるかということですね。
清水 今の話で、最後に個々の作家がとおっしゃいましたが、文字通り最初の話に戻って「各人主義」なんですね。だから公募団体というのは組織だけれども、やっていることは作家それぞれで、会が絵を描いてくれるわけでも、販売してくれるわけでもないから、それは個々人の問題だと思うんです。
入江 そうなんだけど、僕は時々立軌会のパーティーでスピーチ頼まれますが、これは理想的な展覧会だというんですよ。それは規模のことで、つまり六本木の美術館でやっている団体展は正直言って、物理的にね、全部見られるかといわれたら見られないですよ。僕は春陽会は自分の会だから目を通すけど、外の団体展に行ったら、知り合いの絵描きとか、教え子の絵をピックアップして、それを見て帰ってくるというのが普通の状態で、あれだけの絵を一点一点見てくれる人は僕はほとんどいないだろうと思うんです。物理的に団体展は大きくなりすぎている。だから、不可能だと思うけど春陽会も少しずつ少しずつ小さくしたいという風に思っている。
渡辺 そうですね。不可能だと思うけどその道を行くしか…。
木村 公募展の画壇における意味は100年前とは全くかわりましたが、私は春陽会の存続の意味はあると思っています。作家の創作は本当に孤独なものですが、会に関わる人、外部の人でも、とにかく毎年見てくれているからこそ、作品の小さな成功も失敗も見逃さないでくれている、という安堵感、それは個展では味わえない強い後押しになっていると思います。それでなくても他者との関係が希薄な若い世代にとって、この後押しは、創作の救いや力になるのではないでしょうか。
入江 それともうひとつなぜ団体展が一般ジャーナリズム、一般市民から全く無視されているのか、それから美術館の学芸員は団体展を観ないことがステータスだとなっている、その原因は何かということをはっきり自覚してやっていかないと、とても続かないだろうなと思っているので、だから僕はそれこそ、清水さんあたりから、その問題を評論家の立場から、団体展の弱点というものをはっきり示してもらいたいと、思っているくらいです。
清水 僕もある新聞に書きましたが、公募展無用論とか、公募展不要論と言うのは、半世紀も前に起こっているんですよ。その当時の美術ジャーナリズムと美術評論家が公募展の使命はもう終わっているというんですね。確かにある部分では終わっていると思います。それから肥大化しているのも事実です。その運営継続に主眼が行って、最初の切磋琢磨しようとか、勉強しようというのがお留守になっている。続ける形だけを求めるとそうなってしまいますね。結局は魅力がないから美大生はまったく公募展には無関心。もう一つは大学の教授に公募展を経験していない人たちが大勢いるんですよ。その人たちが公募展の経験もなくてんから駄目だと色眼鏡で見て言っている。学生たちは、まだ若いから頭から信じちゃうんですね。やったうえで駄目だったという人と、やったことがない人が言うのはだいぶ意味が違うと僕は思っているんですけど。それにしても公募展の使命が今どこにあるのか。入江先生が今、半分冗談だとおっしゃったけど、公募展をここで終わりにすると言われたのを聞きましたが、現実問題として、公募展の使命がいくつかあるとしたら、今そのいくつかが壊死してしまっている。そこのところをもう一回きちんと見直して、なぜ学生が興味を持たないのか、持つようにするには公募展が変わっていかなくてはいけないと思うんです、会というか作家たちもそこは反省して修正しなくてはいけないんですね。
入江 ただ僕は新しいこんなやつがいたのかという、新しい才能を発見する喜びは団体展に確実にあって、こんな新しい作家がいるのに見向きもしないのは残念だなと言う気持ちがありますね。
清水 見るべき多くの作家がいますから、きちんと観ていただきたいですね。残念ですが、そろそろ時間のようです。今回は春陽会の100年に亘る歴史を、出席者各々の経験や考えから話して頂き、大変有意義な座談会になりました。100年の歩みの中で生れたシステムや伝統、培われた美術芸術への精神、また輩出した多くの画家、版画家の姿は大変興味深いものであると共に、得心できたことや考えさせられることも多くありました。春陽会の100年を考えることで、公募美術団体の現在と将来の在り方を、現役作家の方から伺えたことは大きな収穫となりました。この座談会が春陽会という一美術団体の歴史を振り返るに留まらず、多くの公募美術団体の今後を考える一つの指針を示すことができたのも嬉しく思います。出席された作家の皆様に、深く感謝申し上げます。(了)

(2022年11月30日収録)

入江観氏が「僕は時々立軌会のパーティーでスピーチ頼まれますが、これは理想的な展覧会だというんですよ。」と述べていますが、立軌会とは1949年に牛島憲之や須田寿らが日展及び創元会を脱退して結成した美術団体で、多くの団体展と違い公募制を取らずに同人が認めた洋画家を迎え入れて新しい同人にする、というシステムを取っています。そのためか、作品の質は全体的に高いです。また、公募制の団体展と違い明確なヒエラルキーはありません。立軌展は毎年秋に東京都美術館で開催されていますが(昔は東京セントラル美術館で開催していました)、同人が三十数名しかいないので小規模です。主な同人に笠井誠一氏(代表)、赤堀尚氏、五百住乙人氏、池口史子氏(日本芸術院会員)、山田嘉彦氏らがいます。

入江観氏はその立軌会を理想としていて春陽会も少しずつ規模を小さくしたいと思っているのでしょう。

また、入江観氏の発言で「それから美術館の学芸員は団体展を観ないことがステータスだとなっている、」という部分が気になりました。多くの美術館学芸員が団体展など眼中に無いことは百も承知ですが、あの業界では団体展を観に行ったなどと口にするとバカにされて出世に影響するのでしょうか。大手だと特にそうでしょうが、美術館学芸員の鼻持ちならないエリート意識には正直、反吐が出ます。ただ、東京都美術館など、一部には立場上、団体展に足を運んでいる学芸員がいることも一応、申し添えておきます。

あと、入江観氏が「ただ僕は新しいこんなやつがいたのかという、新しい才能を発見する喜びは団体展に確実にあって、こんな新しい作家がいるのに見向きもしないのは残念だなと言う気持ちがありますね。」と述べていますが、これは本当にその通りで、春陽会にも無名ではあるものの優れた絵を描いている洋画家が何人かいます。特に、長谷川光一氏(絵画部会員)は洋画壇でも屈指の鬼才で、美術館学芸員が団体展を無視しているためにこういう画家が日の目を見ないでいることは美術界にとって大きな損失です。

長谷川光一氏についてはいずれ詳しく取り上げますが、取り敢えずここでは公式サイトのリンクを貼るにとどめておきます。氏の作品が数多く掲載されていますのでご覧下さい。

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