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横山大観の贋作を売っていた「共楽美術倶楽部」

飯島勇編『近代の美術10 横山大観』(至文堂、1972年5月)pp.117-118に横山大観の贋作事情について書かれています。

 近代の日本画壇で、大観ほど人に知られた画家はほかにいないから、世間に出まわっている偽物の数もいちじるしい数にのぼると思われる。先般、横山家を訪問した際、静子大観夫人から「主人は生前、この分だと私がなくなったあと、偽物が鑑定に沢山もちこまれるよと申されましたが、このごろそれが毎日のようにあります。その上、ひどいのになると、登録番号の偽物までできています」とのお話を伺ったが、やはりと思われた次第である。大観の場合は、鑑定書は出さないで、類別ごとに登録した番号の写しが渡される。
 ところで、大観の偽物が一番多く作られた時期は、満州国が誕生し、それがどうやら存在している間ではなかったかと思う。そのころ、東京に共楽倶楽部というものがあり、新画では、帝展の無鑑査級の偽物まで売立てされていた。この倶楽部と満州国とは何も関係があったわけではないが、ここで買われた偽物がどんどん満州国に渡って行ったらしい。
 満州国誕生後、日本から有象無象沢山の人がそこに渡り、あるいは移住した。したがって隣人どうしであっても、お互いに、どこの人でどんな経歴の持ち主かわからない場合が多かったから、自然虚勢を張り合うことになり、その結果として客でもあったとき床にかけることを考えて、ネームバリューのある画家の絵を買いこむということが多く行われたらしい。そうした場合、筆頭にあげられたのが、大観であったことは容易に想像される。

この絵はあくまでもイメージ画像であり、横山大観の贋作ではありません。

ここに書かれている「共楽倶楽部」という組織が気になり、グーグル検索したのですが、何も情報が出てきませんでした。

その後、与野冬彦編著『近現代ニセモノ年代記』(光芸出版、2005年7月)という本の「1935年」の項目に以下の記述を見つけました(p.203)。

京楽美術倶楽部(有楽町)賑わう。【近くにある芝の東京美術倶楽部と対蹠的なゲテモノを扱い、年に三〇回も入札会やセリを行う気安い倶楽部として流行、坂東三津五郎(一九六一年没/七代)、小森松菴、小磯良平らの趣味家も出入りし、志野向付の離れ(半端物)、はっきりしない脇窯物、疵物茶碗、怪しい歌切や歌書、狩野派の掛軸や幸阿弥派の漆物などで溢れ返る。因みに、その倶楽部の主宰者は、自邸内に構えたニセモノ工房(茶道具必携の「次第」を、熟練の蒔絵師らを雇って偽造)黒幕だったとも。(以下略)】

ここに書いてある「京楽美術倶楽部」は前述の「共楽倶楽部」と同一組織ではないかと思い(満州国が建国されたのは1932年なので時期的にも合っています)、「京楽美術倶楽部」でグーグル検索したところ、1件もヒットしませんでした。

ひょっとしたら「京楽美術倶楽部」は「共楽美術倶楽部」の間違いではないかと思い、「共楽美術倶楽部」でグーグル検索したところ、以下のことが判明致しました。

共楽美術倶楽部は洋画家・辻永の弟の辻衛が設立した美術商で、もともと「カフェ・ロシア」や日本料理店「青柳」を経営していたものの関東大震災で閉店を余儀なくされ、震災後に「望紗瑠荘」という画廊を立ち上げ、その後身が共楽美術倶楽部です。辻衛は1929年8月に自動車事故でこの世を去っており、ひょっとしたら辻衛亡き後に画廊の性格が変質して横山大観の贋作など怪しげなものを扱うようになったのかもしれません。

ただし、ウィキペディアの「谷信一(美術史家)」の項目によると、「千葉市美術館には、谷が収集した近世日本美術コレクション51点が所蔵されている。そのうち10点は駒田家からの伝来品だが、残りは1941年から44年頃に共楽美術倶楽部(洋画家辻永の弟・辻衛が設立)で自身の眼で1点1点購入したものである。その絵師のマスターピースと呼べるような作品はないが、狩野派、谷文晁などの関東南画、英派、俳人の書画、来泊清人、南蘋派、長崎派など幅広い流派を含み、谷の関心の広さが窺える。また、『国史肖像集成』を編纂した谷らしく、人物画がやや多い。」とありますので、贋作だけではなくまともな美術品も扱っていたことが分かります。

辻衛については以下の記事をご参照下さい。

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