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わたしのキャンパスライフ 卒業を控えて思うこと

大学に行くために地下鉄に乗った。
キャンパスの名前がついて駅があるけれど、
わたしはいつも一つ手前の駅で降りて、キャンパスまでの坂道を上る。
一つ手前の駅、といってもキャンパスまでの距離は近く、坂道である分少し時間がかかるかな、というくらいの距離で、その道を一人で歩いてキャンパスに向かうのが好き。
左手側には森があり、6月ごろにはブルーの紫陽花が咲いている。
紫陽花はあんなに花の部分が大きいのに、お辞儀もせずシャンと立っている。
最近キャンパスに行ったときは、まだ夏の名残が強く蒸し暑さが体をまとわりついてきて一駅前で降りて坂道を上ることに後悔していたけど、季節が正式に秋と名乗れるくらいには秋が深まったタイミングになっていたので、久しぶりにキャンパスに来たなという事を自覚した。
左手側の森ももちろん紫陽花はないし、全体の色を秋色に替えている。
この秋色が深まったらいよいよ冬だ。


就活をしているのかスーツを着た学生が真面目な顔をして歩いている。
キリっとした顔立ちの女性のすっと伸びた背は遠くからでも目を惹く。
すれ違う二人組の学生の会話に聞き耳を立てると、日本語じゃない言語を話していて同郷同士での会話を楽しんでいるのだということが分かる。



大学にどんな思い入れがあるか、と問われても、何かパッと思いつくような思い出や思い入れは正直、ない。
必死になって勉強して、なんとかこの大学に入った。その感慨深さをしみじみと思い出すこともないではないけど。
大学1年生の時には考えられなかったオンラインという授業形態、オンライン飲み会というコミュニケーション方法にとって替わられた大学生活は、わたしを「〇〇大学の学生だ」という自覚をさせ切るよりも先に、大学という場以外でどのような経験を積むかという探索に意識を向かわせた。
だからもうとっくに〇〇大学の学生であるという学生気分はないのだけれど、社会人でもなくて、しかも今のところどのような社会人になるのかも決まっていないから、どんな気分なのかは自分でもわかっていない。一年休学していたのだけれど、その時の感覚が復学してもなお消えない感じ。「〇〇大学の学生です」という自己紹介はできるけど、大学でどんな勉強をしていますかと問われても「今休学してるんです」って語っていた時と気分は変わらない。もしかしたら卒業後もそんな気分のまま生きていくんだろうか。それはそれで堂々と生きられる自信はあまりない。



そんな感じなので、卒業式に出る予定も今のところない。
オンラインという言葉を聞いてもまだどんなものか実感が湧かなかった一年生の時にできた友達はみんな「ステイホーム」という言葉に力を借りて関わりを減らしてしまった、なんなら縁を切ってしまったと言っても間違いではないだろう。
みんなのことは好きだったし、楽しい時間を過ごしたし、たくさん笑った。けれでも、そこにいたわたしは「わたし」ではなかったような気がしていたから。そして、なんなら休みの日がないくらいに予定を詰め込んで充実させていた一年間に、もうとっくに無理ができて疲れていたのだ。
「ステイホーム」という社会の風潮がよかったとは思わない。心を病んでしまった人もいただろう。でも、社会全体でその風潮があったからこそ、わたしは、本当は何がしたいのか、どのような友達が欲しいのか、どのような瞬間に幸せを感じるのか、どんなことを頑張りすぎて無理していたのか、気づけたのだ。ありがとうというのも違う、助かったも違う、丁度良かったもしっくりこない、必要だったも強すぎる、不幸中の幸い?それもなんか違う。本当はずっと気づきたかったことに気づかせてもらえた機会になった、このくらいかな。



キャンパスライフという言葉で描かれるような場面をわたしは経験しただろうか。それはよくわからないけれども。
「思い入れがない」という言葉で〇〇大学の学生生活を振り返ってしまうけれど、キャンパスに向かう道を歩くのもあと数えるほどだと思うと大切にしたい気持ちになった。



幼稚園も、小学校も、中学校も、高校も、気づいたら卒業していて、その前にはちゃんとカウントダウンがあったのだ。なんなら小学校や中学校の時は、わざわざ卒業までのカウントダウンのカレンダーをつくって「もうあと何日しかこの校舎に通わないのだ」ということを自覚させる。
小学6年生の時も、中学3年生の時も、幸いにもクラスに恵まれて比較的楽しく過ごせていたから、カウントダウンはわたしを切なくさせた。
中学校の卒業は、高校進学というそれぞれに別々の道を進むんだ、もう一生会わない人もいるのかもしれないんだという不思議な気持ちが湧きたって、普段なんとも思わないクラスの男子にもなんだか愛おしさすら感じるような気持ちになっていた気がする。
当時、クラスに熱烈に好きだった男の子がいて、お互いが志望する高校が別々であったから、中学を卒業するという事は大好きな人と毎日理由もなく会って、話したり、笑いあったりできなくなるということを意味した。二年間、その彼と会える毎日を楽しみに生きていた私には、それはそれは悲しい現実であったので卒業を前に多少なりとも病んでいた。その証拠に、この時期からわたしは日記をつけ始めている。気持ちをぶつける先が他になかったから笑。ここからわたしの黒歴史ブックが誕生したのである。

始まってほしいと思っていたことも、終わりたくないと思っていたことも、逆に始まってほしくなかったことも、終わってほしいと思っていることも、時間というものはその思いを汲んでか汲まずか、始めてしまうし、終わらせてしまう。
それが有難いと思って時間に感謝したこともある。それが切なくって涙を流したこともある。
刹那を願うときもあれば、永遠を願うときもある。
でも、それ願いはいつだって時間という物理的には平等で不可逆的なものを前に叶いはしない。

大学を卒業する。それは時期が来ればそうなるのだということ。
早く卒業したいとも、もっと学生でいたいとも、思わないけど。
与えられた時間を、残された時間を、少し大切に味わっておこうと思う。

高校時代にあこがれていたキャンパスライフを送れましたか。
まあ、どんなキャンパスライフを想像していたのかすら、覚えていない。
でも、始まる前の想像など想像でしかなくて、妄想でしかなくて、始まってみれば私の五感が、私の喜怒哀楽をベースとした感情が、その時々を全力で経験していた。
それが過去の想像をなぞるものであったかはわからないけれど、想像できる範囲の体験はきっと意味がなくて、理想ではない日々も、あこがれとはほど遠い日々も、そこにはわたしの生きた証が刻まれていくのだと思う。そんな大学生活だったのではないかと思う。
ねえ、そうだったでしょう?
改めて、自分に問いてみる。


やっぱり、卒業式には出ようかな、あの袴を着て。

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