私の介護メモ #41

日頃は母の介護を週1やっているが、この夏は、何年振りか久しぶりにお姑さんに会いに帰省した。

10年前にタイから本帰国したその年、帰国後まだ無職だったから、
お姑さん(お義母さん)が脳梗塞で倒れた時に旦那にお願いされて
3週間くらいだったか、旦那の実家に泊まり込んで介護をした。

当時介護を義兄の奥さん(義姉さん)と、義妹が代わりばんこで
やっていたが流石に長期の泊まり込みは二人とも子供がまだ我が家より小さくて、私がいなくてもなんとか家庭が回りそうな我が家が
手を挙げて、私が長期に泊まり込んで、義母が入院している病院に毎日通った。

義母の弱音を毎日聞き、義母のリハビリを毎日見守り、とにかく、何も考えず、励まし、叱り、宥めすかし、そんな繰り返しの日々を過ごした。
特別過酷とは思っていなかった。

冷静になれば、かなり大変だったのかもしれない。
旦那のお父さんはもう旦那が子供の頃に亡くなっているので、
誰もいない旦那の実家に泊まり込み、お義母さんの使っていたバイクを借りて、病院まで通い、面会時間が終わるまで付き添い、
夜になってスーパーに寄り、
食事の買い物をし、洗濯をして、
翌日また義母の着替えや、自分の食べ物を持って病院に行き、
そんな繰り返しの日々を3週間くらい過ごした。

私の感覚がおかしいのかもしれないけど、お義母さんや、旦那の妹さんが、泣きながら
「ごめんねー、本当に助かる」と
何度も何度も言われたが、
いや、普通でしょ。
そういう事もひっくるめて、
私は丸ごと旦那の事を受け入れて結婚したんで、別にって、感じだ。
大したことはしていない。
当時も今も、こんな感触だ。

ただ、やっぱり、横浜の我が家から、大阪の旦那の実家に頻繁に通うのは無理なので、
それ以後は本当に数年に一回の割合になった。

基本、実母が脳梗塞で倒れて介護が必要になっても、実母と実父に介護しようかと言ったら拒否されたので、こっちも数ヶ月に1度1週間くらい滞在してやっていた感じだった。

とにかく移動に費用がかかる。
実母だけでも呼び寄せようとしたが、実父の拒否されたので、
私が夜行バスを使って移動しながらやっていた。

お義母さんの介護も最初は夜行バスで通っていた。

そして、実父が亡くなってからは殆ど、お義母さんの所へは行けてなかった。
実質、実母の介護にかかりっきりになった。

3年ぶりくらいだったか、ひさびさに会ったお義母さんは、
もう、旦那の事も、私の事も分からなくなっていた。
それでも、認知症の実母と違い、穏やかで、話をしてくれて、
とにかく手を握って離さなかった。

寝たきりになっていたお義母さんを見て旦那は酷くショックを受けていた。
「これは、頻繁に帰らなあかんな」
「当たり前でしょ!あんた一人でもいいから、帰らなきゃ!!」

別に好きとか、嫌いとか、どうでもいい。
好きでも、嫌いでも、会わないと後悔するのは、会いに行かなかった本人だ。
それが実の親子なら、尚更だ。
これは、実感だ。

もう、私の心の中では、18歳の時に父は亡くなったもんだと思っているのだが、その後、私が結婚した後に母のところに転がり込んだ父を、大腸ガンをはじめとする多臓器不全で入院した時以来、
結局、母の介護と父の入院面会と
こなし、父の死に目に会えなかったけど、
本来なら18で親子関係を戸籍上切っている父の葬式に参加するのも、筋合いは無いのだけど、
喪主もし、共同墓地とは言えお墓にも埋葬した。
これは我ながらよくやりきったと思う。

生きている自分たちが悔いを残さないようにすることが大事な気がする。
それは介護する立場でも同じだ。

あくまでも、私の主観だから、他人と比較する必要はない。
介護する側が悔いを残すような介護はダメだ。
自分の出来る範囲でできる事をする。
そして、これは瞬発的なことではなくて、長期にわたってやり続けなきゃ行けない事を忘れない事だ。
たまには息抜きをし、楽しみもあり、介護する側がストレスフルではダメなのだ。

無理なことは、無理って言う!
出来ないことまで頑張らない!
そして、絶対頑張りすぎない!!

この夏は、お義母さんに久々会えて、話せてよかった。
ほぼ実家の草むしりと墓掃除がメインになったけど、良かった。

一昨日、母の月1の通院のため、
お盆渋滞と、先日の台風による高波で海側の有料道路は通行止になっていて、大渋滞の湯河原熱海間の道路。
迂回のため、山道を走って、母の施設に辿り着くのに、いつもの1.5倍の時間が掛かってしまった。
会った途端母大泣き。
介護士さんの話では、前日、食堂で便失禁したそうで、それが心に残ったのだろう、会った途端
「もうダメ。頭がおかしいんじゃ」と大泣きした。

泣くよりも、病院の時間が大事。
この熱海市内中にバカンスに来た人達で大渋滞の中を抜けて行かなければならない。
ひょえーーー、である。

なんとかギリギリ予約の時間に間に合う。

病院が終わり、渋滞の熱海市内を行ったり来たりは出来ないので、
近くのスーパーで昼ごはんにお寿司を買い、施設に戻って二人で食べた。

気がついたことがいくつか。

・置いておいた飲み物のペットボトルがあまり減らない。心臓病だから、あまり多くの水分を取れないが、それでも1日1本500mlのペットボトルのお茶とか、水とか、コーヒーとか、とって欲しくて置いていても、飲みたがらない。だから、血栓が起きて脳梗塞になったし、結石が出来て胆嚢炎や胆石で尿管結石起こしたのに、水分を取らないのは命取り。
今回も何度も、「1日1本飲んでね」と言う。

昨日の母の面会は疲れた

・行方不明だった、あげた靴、見つかる。何事もなかったように戻ってきた。
流石に踵の部分に記名しておいたから、誰かの部屋に行っていたのかもしれない。
ここ何ヶ月か、買って持ち込んでる物何もかもに記名するようにしている。余りにオムツや、お掃除シート、洗剤のなくなるスピードが速かったので、嫌な予感がして、オムツや洗剤、服、持ち込んだ全てに記名することにしたら、
なくなるスピードが遅くなったし、行方不明の率が低くなった。
何度も施設側に「靴がなくなった、服がなくなった」と訴えたが、分からない、本人が捨てたのかもと言われたので、不可解だし、不信感も感じたので。
記名で解決するなら、それでいい。それ以上施設にも、問う気はない。

・エプロンをつけて、部屋の掃除をするのだが、洗濯やらしていたら、同じ階の居住している男性(おじいちゃん)にスタッフと勘違いされたのか、何度もお願い事をされる。毎度スタッフではないのでと説明するが、全く理解できてない。多分、認知症なのかな。
スタッフさんにお願いしてみても、何度もわざわざ母の部屋の掃除中にやってきて、手を合わせてお願いされ、その度に居合わせた男性スタッフさんに引き渡す。
その繰り返し。

・渋滞も、認知症のおじいさんも、泣き叫ぶ母も、行方不明の靴が戻ったことよりも、嫌だったのは、履いていったサンダルを物欲しげに母が「それいいサンダルだね」と言ったことが一番ムカつく。ムカつくポイントそこ?って思われるかもしれないけど。
速攻で「これは旦那さんに買ってもらったやつだから、ごめんね、あげられないわ」と返した。
認知症になった母の悪い癖で、「良いね」と褒めたものは、絶対自分の物になるまで、ずっと言い続ける。そして、あげたら目的達成すると、ポイっとする。
こっちが気に入ったものを渡すと、本当にショックなので、基本あげないと最近思っている。

#日記 #介護 #エッセイ #備忘録

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