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母のことと、母親になることについて

私は、母親になれる自信は無い。
なぜなら、自分の母と同じ育て方を繰り返してしまう気がするから。

母は、愛情表現が苦手で、私を抱きしめたり、褒めたりすることが無かった。ほとんど無いとか、一度でも薄ら記憶なら残っているとかではなく、無かった。

母は、淡々と子どもを否定していた。私のできないことや苦手なこと、失敗を指摘する。「駄目だ」「どうしてこんなこともできないの」「あーあ」のように、私の行動を否定する言葉のバリエーションはとても少なく、冷たく、鋭利だ。

どうして、私を褒めようとしてくれなかったのか。一度、母にそう尋ねたことがある。すると、母曰く、「褒めることはとても恥ずかしいこと」だから「できなかった」とのことだった。

意味はよく分からなかった。
意味不明だけれど、私はどうにか母を理解したかった。その言葉に隠された真意が別にあるような気がしたし、あってほしかった。

そこで、母の言い分を、自分のいいように解釈して納得することにした。

母もまた、愛情不足な子ども時代を過ごしていたのかもしれない。
母もまた、褒められることのない、何かが欠けた子どもだったのかもしれない。

だから、ありのままの子どもの姿を受け止める方法が分からなかったのかもしれない。
だから、つまり、私のことを本当は愛したかったし、愛しているのかもしれない。

大人になった今でも、私はこうして母からの愛情を求めていることに気づく。

過ぎ去った時間は、永遠に取り戻すことはできない。
理想の母親像とは程遠い言葉や態度が、私には刷り込まれていて、膝を抱えて泣き続ける子どものままの自分が、いつまでも心のどこかに居座り続けている。

だから、私は母親になる自信がない。
母のようになりたくないと思っているし、仮に母親になったとしたら、母を反面教師にしなければならないと自分に言い聞かせている。

母にしてほしかったことを、私がすればいいのだろうけれど。
果たして、体が動くだろうか。
頭では分かっていても、実際に子どもに伝えることができるだろうか。子どもの心を満たしてあげることができるだろうか。

自信なんて、ない。
怖い。

それでも、懲りずに自分に子どもがいたらと想像することがある。
子どもが欲しいと切望することはなくても、子どものいる人生を想像している自分がいる。
自分には無理だろうし、子どもが欲しいとは思わない。それでも手放すことができない、不思議で厄介な感情。


これからも、私はきっと、母のことを書いていく。

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