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幼少期 幼稚園生あいちゃん〜母サイド〜

息子がやっとつかまり立ちを始めた。喜びも束の間、兄から電話が入った。
「父が倒れた。近くの病院に入院した。」
仕事に出かけようとした父が行き道で倒れたのだ。
末期の肺がんだ。1年持つだろうか…だいぶ酷いらしい。肺に水が溜まりきっている。
この状態になるまで普通の人は耐えられないらしい。なんとも父らしい。

娘と息子を連れて入院している病院へできる限り通った。
歩き始めた息子の手を引きながら、病室まで続く階段を一段一段足を運ぶたびに父のことを思い返していた。
息子に「上手に登れたね〜」と努めて明るく褒める自分の声が、込み上げてくるいろんな気持ちと自分を切り離す精一杯の行動だった。

父はとにかく厳しい人だ。孫に微笑む姿をみて驚いた。それほど笑った姿を見たことがない。
母は私が小学生の時に全盲になった。病気を治すために飲んでいた薬の副作用で視力がなくなってしまったのだ。
そのため小学6年生の頃には、家の家事を全て担っていた。
炊事、洗濯、掃除。働いてくれている父と兄達は神のような扱いで、順に扱いが降りてくるわけだ。
私は女であり一番下。そう、私がする。
どうしても出来ないときは母が代わりに台所に立つが、目が見えないため油に指を突っ込んで確認をする姿を見た時から、台所は私か一番話が通じる次兄と立つことにした。

私の記憶の中では両親は子供は嫌いだと思っていた。だが、孫たちへの行動を見て思いを改めるしかなかった。
父は娘を自転車の後ろに乗せて珍しい汽車を見せに行ってくれたり、息子のために木馬をくれたりし、母は私の憧れだった七段雛を娘に買ってくれたり、息子には兜を買ってくれたりした。
それと同時に、私にはこれっぽっちもしてくれなかったのに、一切お金をかけてくれなかったのにと複雑な気持ちが湧いた。
当時私にお金をかけていられなかったのだとは思うが…

私は4人兄弟、一番末っ子。上3人は全員男。戦後間も無く裕福ではない我が家。子供は働き手。物心がついた時には一番上の兄は働いていた。実の兄弟だと正しく認識したのはだいぶ後だったように思う。
全て兄達のお下がりでことを済ませ、女性特有にかかるものは申し訳なく思いながら使った。

男尊女卑100%の家では、学ぶこともできなかった。
私は学ぶことが大好きだった。知らないことを知ることも、できないことができるようになることも好きだった。成績もなかなか優秀だった。
父へ高校へ行きたいと申し出た時、私の淡い夢は終わった。
「女が男よりできることがあってはいけない。勉強してなんになる。知らないくていい。家のことさえできればいい。学校は行かせない。そんな何にもならないものに払う金なんてない。」
あの声に逆らえる人がいたら教えて欲しいものだ。

中学を卒業して一般企業に勤め始めたとき、周りの大人たちに混ざることを何よりも頑張った。気に入られなければと、一所懸命会話に入ろうと話を合わせたり、話を聞いたりして嫌われないように精一杯勤めた。
この頃から体の異常が出始めた。婦人系の病気がひどくなってきたのだ。
そんな時に両親からかけられた言葉は「気のせいだ」「これだから女は」「気がたるんどる」だった。
気を失うほどだとしても、私の精神が弱いと言われるので家で弱っていることを見せてはいけないと学んだ。
しっかりと「大丈夫です」という仮面を被っておかないと、否定の言葉がじゃんじゃん飛んでくる。
「働かざる者食うべからず」穀潰しとレッテルを貼られてはいけない、それだけは避けたかった。
お布団の中が私の自由な場所。父が居るとわかっている家では、布団の中でも「大丈夫」の仮面を取ることが怖くなった。

それほど厳しかった父が、癌なのだ。
余命幾許もない。不思議な心地だった。
人はいつか死ぬ。
わかっていても、精神的にも肉体的にも強靭だと思っていた父が、入院している。
そしてもうすぐ死ぬ。
日が経つに連れ不思議な気持ちになった。

娘や息子に嫉妬するほどに、父に対して許せない気持ちが溢れかえっていたのに、会うたびにげっそり痩せていく父の顔を見て、息子がしっかり歩けるようになるまでは、などと思っている私がいるのだ。
少しずつ父の病室に滞在する時間が長くなっていった。
病室に子供を連れて遊びにいくと、賑やかで怒るかと思いきや、笑顔で起き上がり、娘をベットに登らせる。
売店で買っておいた絵本のセットを一緒に読むのが楽しいのだ。
息も苦しいはずなのに、何も問題がないように孫たちへ振る舞い切る。強靭な気力の持ち主だと再確認した。
少し時間が経つと「愛、これで好きなの飲んでおいで」といって100円くれるのだ。
何ヶ月にもなる病院通いで、娘は1人でアイスココアを買えるようになっていた。

無事に年を越し、春の声が聞こえ始め、桜もきれいに咲いていた。
息子の風邪のため小児科へ行って、クタクタになって帰ってきた私。
電話が鳴った、病院からだと直感が言う。出たくない。
受話器を取る。
父が息を引き取ったと兄からの電話だった。
誰も忘れられない日。なぜなら3月3日、ひな祭りの日だから。
娘はわかっていたかのように、静かに息子と遊んでいた。
すぐに義母に風邪気味の子供たちを見てくれるようお願いし、父の元へ駆けつけた。

全ては何事もなく取り計らわれ、役所廻りなども終え、一息着く間もなく娘は幼稚園を卒園する。
小学校へ入学準備が始まる。

強く厳しかった父の死、容態が悪化していく母、起きていられる日が少なくなってきた私。
のんびり育てていてはダメだ、私に何かあったらこの子がこの家を回していくのだから。
小学生になったら、しっかりと教えていこう。
私は嫌われてもいい。
この子たちが1人で生きていけるようにするのが私の役目なんだ。
「しっかりしろ!私!」

娘に全てを伝えることを決めた春だった。


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