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幼少期 幼稚園生〜外と中の世界に気づく〜

…ちゃん、あいちゃん、あいちゃん!
お昼寝の時間だよ。

誰かが廊下を通れば気配を感じ、誰かが声をかける前には呼ばれると気づくことができる私が、真後ろに立って耳元で名前を呼ばれ、肩を揺さぶられるまで気付けない。
この状態を知ったのは幼稚園生、春の遠足前だった。

保育園で見たことはあったけど、近くに寄ることができなかった黒い艶やかな大きな箱。
ぶつかると痛い。
蓋を開けると白と黒の棒があって、白い部分を押すと層になった木の部分が出てくる。

ピアノだ。

保育園と同じものが図書室にあった。
遠目で見ることができた時にはとても嬉しかった。

白と黒の鍵盤は実に魅力的だった。
先生が鍵盤を優しく楽しく叩くたびに、ピアノの表情が変わる。
鍵盤はいつも美味しそうに見えていた。スイーツに見えてならなかったのだ。
というのも、つい先日母が牛乳と一緒に
「これは本当に特別なものなの、大事に食べるのよ」
といって食べさせてくれたものに似ていたからだ。
甘い砂糖の真っ白なグレーズがかかったバームクーヘン。
それにそっくりだったのだ。

甘いイメージのものから、楽しい音が紡ぎ出される。
夢の箱だった。
触るとどんな感触なんだろう。甘い匂いはするのかなぁ。

お遊戯室にも大きなピアノがあった。のちにグランドピアノだということを知る。
そのピアノは蓋に鍵がかかっていて開けることはできない。
怪我をしないようにだろう。
お遊戯の時に先生がピアノを弾き始めた。
全力ダッシュで後ろに立ち、鍵盤が楽しそうに動くのをみていた。
止められなかった。
普段なら望まれることを先回りして行動するため、注意する先生の顔が驚いていたことも覚えている。

先生は声をかけてくれた。
「ピアノ好きなの?」
私は「わからない」と答えた。

その日のお遊戯はほとんど先生の後ろに立っていた。
今思えば先生が、今日くらいは…と許してくれたのだろう。

あっという間に終わった時、先生はもう一度声をかけてくれた。
「図書室のピアノなら弾いていいよ」
あまりの嬉しさに頭が飛ぶかと思った。
次の自由時間は図書室と決めてお遊戯の時間を終えた。

みんな好きな遊びを教室内でする時間という、私にとっては一番苦痛な時間をサクッと終わらせて、一番に片づけて走らずに図書室へ向かった。

緊張しながら図書室の扉を横にスライドさせた。
図書室の本たちの匂いが迎えてくれる。
ちょっと頑張らないと高くて座れない椅子。
ゆっくりと蓋を開けた。

鍵盤を端から端まで一つづつ押してみた。
音が全部違うということがわかった。
バームクーヘンの甘い香りはしなかった。

先生が弾いていた曲が弾きたい。
「小さな世界」だ。
もちろん楽譜なんて読んだことも見たこともない。
頼れるものは自分の耳だ。
その日から、耳で覚えている音を探す時間が始まった。

夢中だった。

ピアノとの時間だけは外の世界のことを一ミリも考えられない。
親のことも、弟のことも、周りにいる人のことも全く考えられない。
天気も気分も考えられない。
ピアノを触っているときだけは、何も考えなくていい時間を作ることができる。
私は狂ったように図書室に通った。

朝の登園後、お遊戯、おやつ、ご飯、お昼寝、全員で何かをしなければならないとき以外は図書室の鍵が閉まるまでピアノの前に座っていた。
外で遊んだ記憶はほとんどない。

お遊戯の時間も楽しかった。
先生が曲を変えるたびに音を覚えるのが楽しかったのだ。
ただただ1人で弾きづつける時間が幸せだった。

家で何かあっても、ピアノの椅子に座ったら思い出せなくなる。
どうでもいいことになる。
イライラした日、苦しかった日、怖かった日、嫌だった日、楽しかった日、嬉しかった日、全部図書室のピアノが受け止めてくれた。
私にとっては魔法の箱だった。

日を追うにつれ、ピアノを弾き始めると、外の世界の音が何も聞こえなくなり、誰かに引き戻されるということが増えていった。
何も聞こえないことがホッとした。
それが集中している状態だということを当時の私は知らない。
当時の私にとって、ピアノは外の世界を遮断できる最高の友達だった。
弾いていると、2人きりの世界にいる感じになってどこにいるかわからなくなるのだ。
初めは外の世界を遮断したいだけだったが、できることが増えていく中で、私の中の世界を音でいっぱいにして満たしていく大切な時間にもなっていった。
それ以降、登園した日でピアノの前に座らなかった日は1日たりともなかったそうだ。

なぜなら、気を張りまくる家と、多くの人の気配を一度に感じる幼稚園を行き来する私が、唯一私を感じる時間なのだから。

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卒園式の時に担任の先生が母に伝えたことで、私がピアノに夢中だということがバレてしまった。
「あいちゃんは、ピアノと出会った日から1日も欠かさず毎日弾いていましたね。家でもお話しされていますか?」と。
ピィーーーーーーンと一瞬で空気が張り詰めたため、その後の2人のやりとりはあまり覚えていない。

駐車場に向かう途中で言われた。
「ピアノを毎日弾いていたなんて言ってくれればよかったのに。知らんかったやんお母さん。先生と話して知らなかったから恥ずかしかったわ。でも家にはお金ないからねぇ、いつまで続くかわからんし。帰ろか。」
そう、うちにはお金がない。
「いつまでもあると思うな、親と金」ことあるごとに母から聞いていた私は、何も考えずに母が必要としているであろう言葉を探し、「うん」と返事をして車に乗り込んだ。

自分の中には誰にも邪魔されない世界があるとわかった時には、嬉しかったし、なんとかして守ろうと思った。
そして小学生に上がる頃には、私の中の世界と外の世界を分け「なぜ、どうして」をさらに詳しく観察し始めることになる。

次第に外と中の世界を分離させていくのだった。



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