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令和阿房列車論~その17『鉄道無常~内田百閒と宮脇俊三を読む』(5)

前回までのおさらい

前回までのおさらいとして、前回の記事をリンクしておきます。

…1セクション読むのに何日かかっているのやら(涙)。

第11セクション~抗い難いトンネルの魅力

宮脇先生はトンネルがお好き?

宮脇先生は17歳の時に関門トンネルを訪れて、清水トンネルに至っては10歳の時に訪れています。

まだ未成年にもかかわらずこれだけ鉄道に乗っていたのは、父親が国会議員経験者かつ実業家であり、父親とともに鉄道に乗ることができたのでしょう。

作品『車窓はテレビより面白い』の中で宮脇先生はトンネルに対しての志向について以下のように書かれています。

男とトンネル。そこにフロイト流の解釈が成り立つかもしれない。たしかに、ゴルフ、パチンコをはじめとして男が考案した遊びには、タマが穴に入るという趣向のものが多い。トンネル志向は母胎への回帰だろうか

『車窓はテレビより面白い』より

さらに、廃線となったトンネルに対しては

黒い口を虚空に向けて開いているのを見ると、未亡人を見る思いがする

『終着駅は始発駅』より

とまで書かれています。

ここまで来ると、セクハラを超えてある種の哲学を感じます。

青函トンネルと宮脇俊三

青函トンネルについても宮脇先生の思いは特別な存在だったのですが、それは青函連絡船に対する思い入れの強さからくるものだったようです。

青函連絡船に乗って北海道に上陸ことを、『前戯なしに北海道へズバリと乗りこむのはよくない。北海道に対して失礼にあたる』とシモがかった表現ではあるものの熱い思いで表現しています。

昭和60年に宮脇先生は開業前の青函トンネルを訪れています。

宮脇先生が青函トンネルを初めて列車で通ったのは昭和62年12月の試乗の時でした。1926年(大正15年/昭和元年)生まれの宮脇先生はこの時は60代ですが、自身が生きているうちには完成しないかもしれないと思っていたこともあって「感動を覚えずにはいられない(『旅は自由席』より)」と記しています。

百閒先生のトンネル観

一方、百閒先生は青函トンネルに列車が走る20年近く前の1971年(昭和46年)に世を去っていましたが、百閒先生が存命中に青函トンネルが開業されていたとしたら先生は乗っていたのでしょうか。

存命中の百閒先生の作品でトンネルについて書かれた作品を挙げると、

矢っ張り海の底の響きがする。頭の上の離れた所に海波が躍っているのを感じる

「鹿児島阿房列車」より

と関門トンネルを評しています。

また、清水トンネルについては、全長9,702メートルという当時の日本で一番長いトンネルを通過したときにその長さに感心していました。

ただ、宮脇先生のトンネルに対する造詣の深さに比べるとそれほどでもなかったようで、酒井先生の本書ではそんなに頁を割かれていませんでした。

#鉄道無常

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