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令和阿房列車論~その16『鉄道無常~内田百閒と宮脇俊三を読む』(4)

前回までのおさらい

前回までのおさらいとして、前回の記事をリンクしておきます。

…1ヶ月以上も空いてしまったんですね。

第8セクション~第10セクション

8.新たなスタート

ようやくこの本の『戦後』が始まります。

東大(当時は東京帝国大学)在学中の宮脇俊三は当初入学した理学部地質学科から文学の世界に心惹かれるようになり文学部西洋史学科へと転部しました。その後大学を卒業して中央公論社に入社しました。

宮脇俊三が中央公論社に入社した昭和26年に、内田百閒は「小説新潮」に「特別阿房列車」を発表したのです。特別阿房列車の題材となった特別急行「はと」に「ヒマラヤ山系」こと平山三郎とともに乗車したのは昭和25年10月22日のことでした。

戦時中好きな鉄道趣味を我慢してきた百閒は、戦後の落ち着きを取り戻してきたこの当時に「なんにも用事がないのに汽車に乗って大阪に行ってこよう」と思い立ち、しかも特別急行「はと」の一等車乗車を平山三郎とともに敢行したのです。

余部鉄橋

このセクションで触れている余部鉄橋について、両者の感想の違いを触れておかなければなりません。

昭和22年8月に山陰を旅行した宮脇俊三は山陰からの帰途で余部鉄橋を通過したのですが、印象に残るほどの感慨を覚えたにもかかわらず作品に記述するときには冷静な筆致、簡単に言えば控え目な作風になるのが宮脇作品によくある特徴です。

一方の百閒は初めて余部鉄橋を通ったのは大正末期か昭和初期のことでした。無類の怖がりだった百閒は、「なぜこんな恐ろしい所を汽車が走るのかと思った」と言うほどの恐怖を感じたのでした。

両者の作品の中での表現で、自身の思いを素直に表現する百閒と控え目に表現する宮脇。私は控え目に表現する宮脇作品の方に興味関心が強かったです。

9.鉄道好きの観光嫌い

鉄道趣味、こと「乗り鉄」にとっては鉄道に乗ることが目的であり各地を観光するというのはあまり見かけません。

百閒先生の阿房列車シリーズを読んでいても、旅行中の車内の様子はかなり記述していますが、宿泊地での酒宴はともかくとして観光についてはほとんど書かれていません。百閒先生自身が「観光嫌い」という性分だったこともありますが、観光嫌いの一面については「区間阿房列車」の冒頭部分に詳細に書かれているので、興味関心を持たれた方はぜひご一読ください。

10.御殿場線の運命

このセクションは開通当初は東海道本線であった御殿場線について、百閒先生と宮脇先生との違いを取り上げています。
そもそも御殿場線は明治22年に開通し、正式に東海道本線と名がついたのは明治42年のことでした。明治の頃はトンネルの掘削技術が未熟だったため御殿場経由で沼津へと出るルートになったのです。
現在の丹那トンネルを通るルートが開通したのは昭和9年のことでした。

さて、百閒先生は御殿場線について非常に思い入れを持っていました。というのも初めての上京であった明治43年はまだ丹那トンネルの着工すらしていませんでしたから、その後の「区間阿房列車」でも御殿場線のくだりを読むと思い入れの大きさを伺えます。

一方の宮脇先生はというと丹那トンネルが開通した当時まだ8歳でした。けれども当時の宮脇少年は当時の大型時刻表をねだって買ってもらったり、その年の暮れに丹那トンネルの乗車を果たしているのです。
この時の国府津駅の凋落と沼津駅の格が上がったことを当時8歳の宮脇少年は感じたのでした。

鉄道の好きな人達は、時代の移り変わりとともに鉄道事情が変化していくことに対する「繊細な感受性」を持っています。
御殿場線に昭和26年にあらためて区間阿房列車として乗車した百閒先生はみじめさを感じたのに対して、昭和53年に「最長片道切符の旅」のために乗車した宮脇先生は時の経過した御殿場線に乗って「風格がでてくる」と表現しているのです。
人間の人生に例えると、百閒先生が感じた当時は第一線で活躍していたのが突然左遷に遭ったものを感じ、宮脇先生の感じた時代は定年を迎えて過去の出来事が懐かしくさえ思うことを感じるのです。

#鉄道無常

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