令和阿房列車論~その13『鉄道無常~内田百閒と宮脇俊三を読む』(1)
はじめに
前回までの『実歴阿房列車先生』を読み終える前に、書店で酒井順子さんの『鉄道無常~内田百閒と宮脇俊三を読む』というエッセイを見つけました。
私にとって紀行文学の師匠である内田百閒と宮脇俊三を考察する文献ということもあって、迷わずこの本を持ってレジに並んだのは言うまでもありません。
読みはじめて、まず思ったことは久しぶりに現代文を読んだ!という感覚です。
百閒先生の文体はもちろんですが、平山先生の文体も百閒先生の影響を色濃く残しているので、どちらかというと古典を読んでいる感覚がありました。
現代文、しかもエッセイというどちらかというと読みやすいジャンルがゆえに既に全20セクションのうち5セクションまで読んでいます。
ということで各セクションというか、大体の区切り毎に感想をつづってゆきたいと思います。
第1セクション~第2セクション
1.鉄道紀行誕生の背景は?
この作品の導入部分ということで、まずは百閒先生と宮脇先生の紹介と日本の紀行文学の歴史的考察から始まって、そこから明治の鉄道開業に入ってゆくという感じです。
書き出しで両者の代表作である『特別阿房列車』と『時刻表2万キロ』の冒頭部分が書かれています。
ことに文学作品というものは、書き出しで作品や作者の印象が大きく影響してきます。
『特別阿房列車』の「なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う」は、戦後の鉄道復興が落ち着いてきた時代背景や百閒先生の性格がにじみ出ています。
『時刻表2万キロ』の「鉄道の『時刻表』にも、愛読者がいる」という宮脇先生の表現には(百閒先生と比較すると)鉄道趣味の中の『時刻表』という分野に切り込んだりするあたりは宮脇先生の性格が表れていると思います。
日本の紀行文学の歴史として、有名どころでは『土佐日記』『更級日記』が挙げられており、当時の旅が命がけだったと書かれています。
明治の鉄道開業によって旅…というより移動手段のスピードアップがなされましたが、当時は異文化に対する戸惑いを記した文献が多かったようです。
2.生まれた時から「鉄」だった
鉄道創成期である明治の時代から現代にかけての鉄道ファンの成りたち、ならびに百閒先生と宮脇先生の鉄道ファンへの生い立ちが書かれています。
現在こそ「鉄子」という愛称もあるので女性の鉄道ファンも認知されてきましたけれども、一昔前までの鉄道ファンといえば圧倒的に男性が多いものでした。
その中で百閒先生と宮脇先生の共通する点について酒井さんは、ひとつは二人とも『お坊っちゃま』だったことを挙げ、もうひとつはそれぞれの父親の存在を挙げています。
百閒先生は造り酒屋のひとり息子として生まれ、宮脇先生は陸軍出身の代議士の末っ子として生まれました。どちらも名家のご子息でたいそう可愛がられたと考察されています。
今でこそ父親の威厳などということは死語のようになってしまいましたが、19世紀末から20世紀にかけての父親の威厳はそれこそ厳格であり、男の子も大事に育てられていた時代背景を感じます。
その中で二人とも鉄道を趣味、いや一生のライフスタイルにしていったことに育ちが大きく影響していたのでしょう。
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