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もてあまして、わけがわからなくて

 
 山田一要という青年に出会ったのは、亮子が死んでから三年後のことである。
 彼はおれに会うなり、持っていた携帯電話を投げつけてきた。何を考えているのだ、と思っていたら、彼を連れてきたキハチが大笑いした。
「一要、幾ら嫌いだからって、ものも云わずにそんなことすんなよ」と云って彼を宥めている。訳が判らなかった。
 キハチの『いわずもがな』という映画に出演する為の打ち合わせの席である。彼は二十才で、十八の時に国内トップレベルの大学を主席で卒業し、現在は無職とのことだった。
 何故そんな呑気な身分でいられるかと謂うと、彼は一流企業の社長令息だったのだ。そのcoldoilという会社は元々フィルムメーカーで、主に警備用の監視カメラを扱っているのだが、一般のカメラなども販売してマニアに熱狂的に支持されている、上条グループ系列の企業だ。特に『coldpod』というトイカメラが人気になり、話題になった。一要青年はキハチに、「映画を撮る時はうちのフィルムを使って下さい。無料で提供します」と云ったらしい。そんな美味しい話に喰いつかない訳がない。
 何故おれのことをそれほど嫌っているのかキハチに訊いたら、「裄原めぐみの信者なんだよ」と云う。
 それなら仕方がないか、と思った。裄原めぐみというのはおれがつき合っていた伊坂亮子の芸名である。キハチが撮った『さいごの夏休み』のクランクアップの打ち上げの際に刺し殺されてしまった。犯人はいまだに捕まっていないが、誰がやったかは想像がついている。
 つき合っていたといっても、おれは彼女の兄のような気分でいて、決して手を出したりはしなかった。亮子が亡くなった後、こんなことになるなら彼女の望み通り抱いてやればよかったと思った。死んでから思っても仕方がない。
 彼女は「アートシネマの天女」という世間の呼び名通り、汚れを知らぬままあの世へ行ってしまったのだ。
 三年も経てば、誰の口の端にも上らない。特別な存在というのは個人個人の裡にしかなく、彼女の死後、おれもあれこれ騒がれたが、もう見向きもされなくなった。大物の監督の作品に起用されたりしたものの、だからといって生活ががらりと変わったりしない。一般大衆に埋没してしまえる、というのがおれの惨めな特徴なのである。
 この映画に彼を出すのかと訊ねたら、「出すよ、あの恨みがましい目つき見ろよ。あれだけでひと殺せるよ」と、キハチは笑った。慥かにもの凄い目つきをしている。その日は結局、おれにはひとことも口を利かなかった。
 翌日、自宅で台本を読んでいたら携帯電話が鳴った。非通知だったのでほかっておいたら、三十分も鳴り続けるので仕方なく出た。出たはいいが、何も聴こえてこない。
 無言電話か、と思って切ろうとしたら、「コシマさん」という少年らしき声が聞こえてきた。誰、と訊いたら「山田です」と答えた。ヤマダって誰だ? と思ったら、「木薪さんに紹介された、山田一要です」と云われて、ああ、あの子かとやっと思い出した。
「なんか用でもあった?」と訊くと、今、アパートの前に居るんですけどお伺いしてもよろしいですか、と彼は云った。
 構わないよ、と云ったらほんの二、三分でインターホンが鳴った。扉を開けると、彼は黙って部屋に這入ってきた。それから一時間、何も話さなかった。今時の若者らしく、痩せた子である。そしてやはり、ひとを呪い殺しそうな眼をしていた。
 煙草に火を点けると、彼も煙草を取り出した。実に気不味い時間が過ぎてゆく。用がないなら帰ってくれないかなあ、と思っていたらやっと口を開いた。
「コシマさんはもう彼女を作らないんですか」と訊ねてきた。おれも男だから恋人くらい居るよ、と答えたら火のついた煙草を投げつけてきた。なんなのだ、この子は。
 それからまた一時間沈黙が続き、吸い殻が徒に増えてゆくばかりだった。亮子が死んでからいろんな厭がらせを受けたが、これが一番怖い。
 吸い殻を捨てて灰皿を洗っていたら、お腹空いてないですか、といきなり背後から声を掛けられた。思わず灰皿を取り落としてしまった。いや、と答えると、ぼくは空きました、と彼は云う。だからどうだっていうんだ。勝手にレストランにでも行けよ、金持ちのぼんぼんなんだから。
 彼は黙って黒いiPodを差し出した。聴けということなのだろうか、と思いコンピューターの置いてある机からヘッドホンを持ってきて聴いてみた。彼は満足したようにソファーに戻った。なんとも陰鬱な曲が流れた。
 掠れた喉を絞るような声が実に不気味である。英語なので海外のバンドの曲だろう。
 蜿々とどす暗い曲を三十分も聴いていただろうか、ヘッドホンを外そうとしたら彼が睨みつけるので聴き続けるしかなかったのである。いいかげん厭になってきたら、彼がソファーから立ち上がってドアを開けた。
 やっと帰る気になったか、と思ったらケータリングの食事を手に戻ってきた。おれがヘッドホンを取りに行ってる間に注文したのだろうか。ダイニングテーブルにそれらを広げ、おれを乱暴に椅子に座らせるとヘッドホンを叩き落とすように払った。
 殺されるかも知れない。
 彼は黙々と食事をし、腹が空いたという割には少ししか食べないでソファーへ戻った。おれはいつ殺されるか判ったものではないので内心びくびくしながら、飯を喰った食卓で煙草を喫っていた。
 二時間ほどしたら彼はぱたっと仆れるように眠り込んでしまった。それ迄の時間は、地獄の片鱗を見続けたと云っても過言ではないだろう。片鱗どころか、釜茹でにされた気分である。
 テーブルの上には九本の吸い殻があった。焦げ痕をクリーナーで擦ったが取れなかった。溜め息をついてダイニングテーブルに戻った。
 ウイスキーを呑みながら台本を読んだ。五本の映画の出演が決まってるが、殆ど脇役なので拘束される時間は少ない。難有いことにそうした仕事が切れ目なく入ってきていたので生活には困らなかった。ドキュメンタリー番組のナレーションもレギュラーであった。
 起用された理由は「個性のない声をしているから」という、役者にとっては貶されているとしか云いようのないものだったが、誰からもそう云われるので気にならない。
 彼の様子を窺うと熟睡しているようだったので、シャワーを浴びた。


 翌朝起きると、一要君が隣で寝ていた。寝ているだけでも怖いのに、此方を睨みつけている。「おはよう」と云ったら、布団の裡で蹴りを入れてきた。何を考えているのか、本当に判らない。
 恐るおそる彼が行ったキッチンを覗くと、なにやら調理をしている。洗面所で顔を洗っていたら、寝間着を捲って熱いフライパンを押しつけてきた。こうやってじわじわ殺していくつもりなのだろうか。横腹がちりちり痛んだ。
 棚から救急箱を取り出そうとしたらまた彼が傍にやって来た。今度は何をする気だ、と身構えたら、ぼくの手から救急箱を取り上げ、火傷の手当をしだした。頭が混乱してくる。
 食卓にはふたり分のオムレツとトーストが並んでいた。昨日のケータリングの食事はゴミ箱に捨てられている。喰っていいものがどうか悩んだが、食べても食べなくても何かするだろうと思って、トーストを齧った。いきなりオムレツを皿ごと投げつけてきた。
 仕事に出掛けなければならないので、支度をしていたらいつの間にか居なくなっていた。心の底からほっとした。もう来ないで慾しい、と神に祈った。
 ナレーションの録音と映画の撮りを終えて帰宅すると、彼がソファーに座ってギターを弾いていた。どうやって這入ったんだ、と思ったら、テーブルの上に合鍵が乗っていた。ゆうべおれが寝ている間に探し出したのだろう。
 そのテーブルは別の代物だった。似てはいるが、煙草の焼け焦げがないし、どう見ても高級なものである。金持ちの倅なのだからそんなものは幾らでも買えるだろうが、ひとに火傷を負わせたり物をぶつけたりしておいて弁償する心理が理解出来ない。
 ダイニングテーブルに鞄を置いて煙草に火を点けたら、ギターでどつかれた。本気でやったら死んでいたところだが、死んでしまっては困るらしく、手加減してはいる。頭にきたが、それよりも恐怖心が勝って何も云えなかった。
 暫くしたらチャイムが鳴って、彼が勝手に応対していた。またケータリングの食事である。
 昨日のようにダイニングテーブルに並べて、おれを突き飛ばし、椅子に座らせる。もう、殺すならあっさり殺してくれよ、と思った。
 ウイスキーの瓶を持ってきて、おれの頭にぶつけてからグラスに注ぐ。自分の分も注いでいたから毒は入っていないだろうと、ひとくち呑んだ。
 彼は実に不気味な顔でにやりと笑った。毒入りか、と覚悟を決めたが、彼も平気な顔をして呑んで食事をはじめる。やはり少ししか食べない。
 幸い、毒は盛られなかったが、食事中ずっとものを投げつけてきた。食事どころではない。
「君はおれをどうしたい訳」と訊ねたら、灰皿で殴りつけてきた。そういうことか。実に端的な答え方である。
 ソファーでずっとギターを弾いているのを見て、昨日の曲は彼が作ったのかな、と思った。だが、何か云ったら痛い目に遭うので黙っていた。ギターを弾くのをやめたと思ったら、洗面所へ行ってしまった。シャワーを浴びに行ったらしい。出てくると、おれをまた蹴り飛ばした。
 どうすりゃいいんだよ。
 彼がおれにシャワーを浴びろという意味でどつき廻しているのが判ったのは、風呂場まで追いつめられてからである。「判ったよ、シャワー浴びりゃいいんだな」と云ったら、ドライヤーを投げつけてきた。このままいったら、本当に生殺しにされかねない。
 キハチもまた、とんでもない奴を連れてきたものだ。彼は『さいごの夏休み』のヒットのおかげで過去の作品も話題に上り、今や「ショート・フィルムの神様」とまで呼ばれている。
 ただ、まともな内容なのは『さいごの夏休み』だけで、他の作品は悪夢としか云いようがないアクの強いものばかりだった。ごく普通の感覚をした人間は評価しなかったが、映画を好んで観るような者にはたまらない魅力があったらしく、熱狂的なファンが出来た。
 彼の映画には必ずおれが出るので、そうしたマニアにはこんな特徴のない俳優を支持してくれる者が多く居た。評論家に云わせると、「白紙の脇役」ということである。
 頭をタオルで乾かしながら、この状況はキハチの映画のようだ、と思った。そこへ一要君がきて、ゴミ箱を頭から被せた。生ゴミじゃなかったのは不幸中の幸いである。ひとの頭にゴミをぶちまけておきながら、それをきれいに片づけ、今朝自分がつけた火傷の状態を診て手当てしはじめた。
 薄皮が剥がれ掛かっているのをそっとガーゼで押さえ、テープで留めている。もうどうでもいいや、と投げ遣りな気分になってきた。これは台本に書かれた悪夢の場面なのだ。キハチの映画にはいつもある。彼はキハチの映画に出演する俳優である。だからこれは、映画の中の世界なのだ。
 そんな訳はないことくらい、判っている。
 ソファーに腰掛けウイスキーを呑んでいると、隣に座ってまたギターを弾きだす。グラスをテーブルに置くと、それを呑む。煙草に火を点けるとそれを取り上げ、喫う。意味が判らない。
「家に帰らなくていいの」と訊いたら、ウイスキーの瓶で殴りつけられた。もう、痛いとかどうとか、考えたくもない。痛いのだが。
 キハチの台本を読むことにした。
 彼は短編しか作らない。それでも変遷があり大手の会社から配給されるようになったが、『さいごの夏休み』以外は名の売れた俳優を使わなかった。今でもおれと、小久保というなんでもこなす男と、劇団狐狸縫の役者しか使わない。
 彼の支持者はそれを「キハチ組」と呼んだ。映画自体も多くの登場人物が出てこないので実に安上がりだったが、彼は作品が評価され収入が上がっても、贅沢な暮らしをしようとはしなかった。
 今回の作品も奇天烈な内容で、女の子がベッドに入ろうとすると見知らぬ男がその裡に蹲っていて梃子でも動かない、というものだった。登場人物は五人だけで場所もその女の子の寝室のみである。
 おれはその子の背後霊の役を振られていた。残りの四人は狐狸縫から砂地一二三、小津居三江、伊土井簍立、柄真家鉖一という役者が務める。女の子は勿論コヅイがやる。狐狸縫の中で一番若く、童顔だったから選ばれた。
 四十分ちょっとの作品になる予定だが、あいつは凝り性だし、おれの役も主人公の女の子の背後霊だけあって出ずっぱりだ。
 自分の科白を読んでいたら、「今のところ、もう一度やって下さい」と、一要君が云った。口に出して読んでいたのだろうか。逆らうと持っているギターで殴ってくるだろうと思い、おとなしく従った。自分もやりたいのだろうか、と思って訊いてみたら、やってみますと答えた。
 台本を渡し、「おれはこの『女の子』って書いてある主人公の背後霊の役。状況が書かれてるのはト書きっていって、これは読まなくていいから」と云うと、彼は熱心に台本を読み出した。煙草に火を点けると、此方を見もせずにそれをおれの口から引ったくる。もう、そんなことには慣れてきた。
 咥え煙草で台本に一通り目を通すと、ソファーの前の、彼が買ってきたのであろうテーブルをどかしてスペースを作った。
 彼は、台本の背後霊が当惑している女の子のに話し掛けるシーンを指差した。「君はなんの役をやってくれるの」と訊ねたら、女の子と書かれた処を指差した。女がやる役を男相手に本読みしたことは何度かあるけれども、こんな凶暴で得体の知れない奴とやるのは、はっきり云って厭だ。が、どつき廻されるよりはましか、と思って自分を納得させた。
「じゃあ、そのソファーがベッドだと思って、女の子の科白を云ってみて」と指示した。
 今度は何が飛んでくるかと身構えたが、彼はじっくり脚本を読み、ソファーに向かって、「ねえ、聴こえてないの? 黙ってないでなんとか云ってよ。……死んでるのかしら」と云った。短い科白だったが、此方も吃驚するほど巧かった。
 見も知らない男に当惑し、ふるえる声で話し掛ける様子は、本当に怯えているようである。
 だが、此処からが問題なのだ。おれに振り当てられた役はお調子もんの幽霊で、現れてからすぐ背後から彼女に抱きついて、耳元で囁く。キハチの映画では暴力団構成員のウエイターとか、白痴のコンビニ店員などを演ったりしたが、男に抱きついたことは一度もない。
 しかし、役者なんかやっていたらそうした役も廻ってくるのかも知れない。
 後ろからから見れば、彼はおれよりかなり背が低い。まあ、おれは一八五センチと、一般からすると背の高い方なのだから仕方がない。無造作に伸ばした髪もさらさらで、華奢な体つきをしているから、これは女だと思い込むことにした。
 おれはだらっと彼の肩に腕を掛け、「死んじゃいないぜ、触ってみなよ」と云ったら、彼は弾かれたように此方を見て、「誰?」と怯えた声で云った。二十才にしては少年っぽい声だが、目つきの悪さはどうしようもならない。
 おれは頭をばりばり掻きながら、「んー、おれはなあ、おまえの後ろにいつも居る、所謂背後霊って奴」そう云うと、一要君は後ずさりして「お化け……なの」と、消え入りそうな声で云った。「まーねえ」と云って彼に近づいて抱き竦めた。
 もうこれ以上やりたくなかったので、「はい、ここでお終い」と云ったら、かれはおれの首に腕を廻して引き寄せ、唇を重ねてきた。一瞬、何が起きたのか判らなかった。彼が舌を入れてきて、やっとキスされてることを認識した。慌てて彼の肩を摑んで引き離した。
 ひとをぼこぼこしたかと思えば、疵を手当てし、ホン読みの相手をさせたらプロ顔負けの演技力を披露する。挙げ句の果てにはディープ・キスだ。
 眠るのが怖くなった。寝ている間にカマを掘られたら泣くに泣けない。などと考えていたら、おれに廻し蹴りを喰らわせて洗面所へ行った。ほっと一息つき、煙草に火を点けてウイスキーを呑んだ。
 彼は戻ってくると、おれには目もくれず寝室に行ってしまった。寝てくれるのは難有いことだ、そのまま眠り続けてくれ。
 ウイスキーをちびちび呑みながら、煙草に火を点けた。烟りがゆるく螺旋をを描いて、天井の空気清浄機に吸い込まれてゆく様子をぼんやり眺めていた。一要君は演劇の経験があるのだろうか。
 などと考えに耽っていたら、彼が寝室から出てきて、おれを蹴り飛ばした。なんなんだよ、いったい。
 彼は黙って寝室を指差した。寝室に行けってことか。行きゃいいんだろ、そもそもおれも部屋なんだし。居間のエアコンを切って、おとなしくベッドに入ると、当然のように彼ももぐり込んできた。
 夏の終わりで寝室の空気はむっとしている。暑くて寝苦しい上に、隣にはおれを睨みつけている青年が寝ているし、とても眠れそうもない、と思っていたがいつの間にか眠ってしまった。


 目を醒ますと、ベッドには一要君は居なかった。眠っているうちに帰ったのだろう、と思ったら、隣の部屋からギターの音が聴こえてくる。まだ居やがったのか。
 洗面所で顔を洗って歯を磨いていたら、彼がやって来て寝間着を捲って火傷の状態をチェックした。膿んできたらしく黄色い膿みが滲みだしている。薬用の脱脂綿にアルコールを浸し、それを丁寧に拭う。化膿止めの薬を塗ってガーゼをゆうべと同じようにテープで留める。そして、自分が治療した脇腹を蹴って洗面所を出ていった。
 亮子を殺したのはおれじゃないんだぞ。世界中の誰より、おれが一番辛い思いをしたんだ、と怒鳴ってやりたかった。
 ダイニングテーブルには昨日と同じ、オムレツとトーストがふたつづつ並んでいる。今日はコーヒーも淹れてくれていた。マグカップに口をつけると、向こう脛を思い切り蹴ってくる。もうどうでもよくなって、オムレツを口にしては頭をどつかれ、トーストを齧っては物を投げつけられた。それでも彼は使った食器を洗って、布巾で丁寧に拭いて水切り籠に並べるのだ。
 今日は生田元監督の撮りがある。このひとは何を思ったのか、ドキュメンタリーしか撮らなかったのに、亮子が死んで半年ほどして本人が直接事務所へ来て、おれの映画を撮りたいと申し込んできた。
 ただひたすらおれが街中を歩いて、立ち止まって、喫茶店に這入って、という姿を追っているだけなのだが、彼に云わせるとそれはドキュメンタリーではないらしい。公開されるかどうか怪しかったのだが、彼の後援会がネットで配信した。
 全編モノクロで、街のざわめきとおれのひとりごとを一時間以上も見る奴など居ないだろう、と思ったら、一般のひとの評価も玄人筋の評価もよかった。ひとえに監督の力によるものだろう。その後、またドキュメンタリーを撮ったがこけてしまった。
 今回は本当の君の日常を撮りたいと云って、今日、この部屋に訪れる予定になっている。それまでになんとか一要を帰さなければならない。彼はソファーにだらしなく腰掛け、呑気にギターを弾いていた。煙草に火を点けて、咥えたまま弾き続けている。
 仕方なく彼に事情を話して、仕事だから席を外してくれないか、と頼んだら、手に持ったピックで思いっきり顔を引っ掻いた。
 どうにもならない。
 十時半頃、生田監督とカメラアシスタントと照明と音声のひとがやってきた。「私生活を乱すようなことをして済まないね」と生田監督は云う。「とんでもないです、監督とお仕事が出来るならなんだって曝け出しますよ」と答えた。
 お上手で云っている訳ではない、このひとは少々変わっているが信頼出来るひとなのである。
 彼らが這入ってきても、ずっとソファーでギターを弾いている一要に監督が気づき、傍まで行って「君は誰かね」と訊ねた。いきなりどついたりするんじゃないだろうな、とおれはハラハラしてその様子を眺めていた。
 彼はギターを抱えたまま手を差し出し、「山田一要と申します」と丁寧に挨拶した。「イチヨウ君か、樋口一葉と同じ字かい」と訊ねられ、「漢数字の一にカナメと書きます」と答えた。ギターを弾くんだね、と訊かれ、ほんの遊び程度です、と答えている。
 随分まともじゃないか。おれには碌に口も利かずどつき廻していた異常者と同一人物とは思えない。二重人格なのか?
 監督は「いつも通り、普段することをして」と云ったが、普段は居ない奴が呑気にギターを弾いている。仕方がないので、ソファーのローテーブルに置いてあった煙草を取りに行った。火を点けようとすると、さっと一要が煙草を取り上げた。溜め息をついてもう一本煙草を振り出して口に咥えたら、今度はライターを顔に投げつけた。
 眼鏡を掛けていたからよかったものの、目に当たるところである。眼鏡を外してレンズを翳してみたが、特に瑕はついていないようだ。
 彼はギターをおれの膝に放り出して寝室の方へ行ってしまった。ギターが大切なのか、投げつけるのではなく放って寄越したので痛くはない。しかし、着替える時に見たが、おれの体は痣だらけである。
 午飯時になって、カメラアシスタントの女の子がお弁当買ってきます、と云って出ていった。監督はおれに向かって「小島君は自分で料理するの」と訊いてきた。だいたい自分で作ってますが、と答えたら、「じゃあ、その様子を撮らせてもらおうかな」と云ってカメラを担いだ。
 このひとは殆ど自分で撮影する。疲れてくるとアシスタントに任せるが、カメラのすぐ横でじっと見ている。普通はモニターを見ているだけなのだが。
 それじゃあなんか作るか、と思ってキッチンを振り返ったら、一要がスパゲッティを茹でている。冷蔵庫からバジルソースの瓶を出し、流しの下の開きからマッシュルームの缶を出し、パスタの茹で具合を見ながらフライパンでソースを温めだした。
 社長令息がなんでこうも手際よく調理が出来るのだろう。
 用意してあった皿に盛りつけている間に弁当を買いに行った子が戻ってきた。心得ているらしく、音もなく静かに這入ってくる。
 生きた心地もなく彼の作ったスパゲッティをもそもそ喰った。やはり一要は半分くらいしか食べない。つい、もっと食べないと体壊すぞ、と要らぬことを云ってしまった。
 残したスパゲティごと皿が飛んできた。
 彼はおれに掛かった麺を丁寧に取り除き、割れた皿を片づけている。「すみません、ちょっとシャワーで洗い流してきます」と云ったら、監督を含め全員が笑い出した。コントをやっている訳じゃないんだよ。
 油ぎったバジルソースを二度シャンプーで洗って、風呂場から出たらそこに一要が立っているではないか。悍ましさの余り、立ち眩みがした。
 彼は洗濯機の上にジーパンとTシャツを置いて黙って出ていった。どうやらおれの部屋の裡のものをすべて把握しているらしい。タオルで頭を乾かしながらリビングに戻ると、弁当を喰っている監督やスタッフらと談笑していた。特にカメラアシスタントの女の子と親しげに話している。
 笑ったりしている様子を見ると、おれに乱暴狼藉を働いている人間と同一人物とは思えない。実に穏やかな顔をしており、二十才の青年というよりは高校生みたいである。
 監督がおれに気づき、「いやあ、災難だったねえ、此方としてはいい画が撮れてよかったけどね」と云った。まさかこいつと一緒のところを使うんじゃないだろうな。
 彼はなんでも旧市に近い襤褸アパートに住んでるらしいね、と云われ、なんのことだ、と思った。そいつはcoldoilの御曹司だろうが。だが、キハチに近づく為に嘘をついたのかも知れない。彼ならやりかねない。
 が、生田監督にも「フィルムを使うならうちのを使って下さい。無料で提供しますから」と云っていた。
「難有いねえ。今はデジタルが主流でフィルムの値段がどんどん上がってってるからね、宜しく頼むよ」と彼の頭を撫でて監督は云った。
 気が狂いそうになる。そうやっておれの周りにコネを作っていって破滅させようというのか。
 その後、三時間ほどで撮影隊は引き上げていったが、一要はずっと寝室に隠って出てこなかった。九時頃になってやっと出てきた様子を見ると、どうやら寝ていたらしい。声も掛けずにいると、黙ってそのまま鞄を肩に掛け部屋を出ていった。
 しまった。奴が寝ている間に合鍵を探して隠しておくべきであった。後の祭りとはこのことである。


 インターネットでcoldoilのことを検索してみた。
 会社のホームページには彼のことは記載されていない。まあ、社長の息子のことをいちいち公開する企業も、そうそうないだろう。あとはcoldpodのものが多かった。だいたいは「LOMOを彷彿させるデジタル・トイカメラ」というものである。
 LOMOというのは昔、爆発的なブームを巻き起こしたロシア製のカメラのことだ。真っ黒なボディで、ファインダーの表側に白い少年の顔のキャラクターがついている。coldpodはそれより、もっと昔のリコーのオート・ハーフというカメラに似ているらしい。
 更に調べたら、クリック4というサイトにcoldoilの不肖の息子、なる書き込みがあった。
「社長のひとり息子である山田一要が十八で帝路大法学部を主席で卒業し、スケこましだということは有名だが、実は木薪八郎監督の熱狂的支持者である事はあまり知られていない。キハチ組の、裄原めぐみの刺殺事件で一躍時の人となった若き名脇役、小島孝次に死ぬ程恋いこがれていることを知ったら彼の親はどう思うだろうか」というものだった。日附けを見たら、四日前の書き込みである。
 スケこましということは、ゲイではないのだろう。しかし、憶測とはいえ、こんなものが世間に知れてしまったらおれはどうなってしまうのか。つい最近書かれたものだからまだそんなに知られていないだろうが、亮子が死んだ時はロリコンと噂され、今度はホモ疑惑で騒がれたら、変態の役しか来なくなってしまうのではないだろうか。
 彼のように大物がバックについている人間ならば、こういった誹謗中傷のネタなど簡単に揉み消すことが出来るだろうが、既にスケこましということで有名になっているところを見ると、ひとに口に戸は立てられないという訳か。あんなドメスティック・バイオレンスな青年が女性にもてはやされるのは、まったく以って理解出来ない。
 が、生田監督のアシスタントに対する彼の表情を思い出してみると、母性本能をくすぐるタイプかも知れないと思い直した。
 有り合わせの野菜の炒めもので焼酎を呑んでいたら、一要が当たり前のように戻ってきた。ギターのソフトケースを持っていたのはいいが、そこから取り出したものを見て、箸を取り落としてしまった。
 別にマシンガンを取り出した訳ではなく、ただのギターなのだが、それはソリッド・ギターだったのである。
 部屋に置いていったのはセミ・アコースティック・ギターで、どつかれても痣が出来る程度だったが、ソリッドとなるとただでさえ重たいのだから、殴りつけられれば失神するか、悪くすれば死ぬ。わざわざケースから出したところを見ると、殴る気満々なのだろう。
 ギターを片手に流し台へ行き、グラスと箸を持って椅子に腰掛け、ギターは床に置いてくれた。
 焼酎をグラスに注ぎ、一口飲むとおれの顔をじっと視つめた。何うする気だろうと思ったら、ポケットから携帯電話を取り出し投げつけた。はじめて会った時のとは違ったので、あれはあの時壊れたのだろう。
 金持ちは携帯電話も使い捨てらしい。
 野菜炒めを突きながら焼酎を呑んで、思い出したように足で蹴ってきた。少食だが酒はよく呑む。赤くもならず、乱れたりもしない。おれを蹴ったり殴ったりすることを除けば。それは白面の時でもするのだから、酒乱ではないのだろう。
 などと安心している場合ではない。
 彼が黙って洗いものをしているのを眺めながら煙草に火を点け、「おまえ、何考えてんだよ。金持ちだから何しても許されると思ってんのか」と口走ってしまった。何も包丁が手元にある時に云わなくてもいいじゃないか。しかし、彼は声を押し殺して、此方に背を向けたまま笑っていた。
 不気味過ぎて、もう何も云えない。取り敢えず離れた処へ避難しようと思ったが、寝室は不味いだろうと、仕方なくソファーに腰を降ろした。
 ウイスキーを呑みながら台本をチェックしていたら、彼が隣に腰を下ろした。無視していたら抱き寄せてまたキスしてきやがる。
 ああ、もうやめてくれ。まだギターで殴られる方がましだ。鼻が詰まっていたら窒息死するくらい長く唇を重ねていた。女とだってこんな濃厚なキスをしたことはない。あの掲示板の書き込みは事実なのだろうか、と考えたら死にたくなってきた。
 気が済んだのか、おれの体を離すと、思い切り蹴り飛ばして洗面所へ行った。あいつは絶対精神異常者だ。そこへキハチから電話があった。
「明日ホン読みの予定にしてあったけど、ちょっと手え入れてるから中止な。おまえの役は変わんないから」と云う。それはいいけど、あの一要って子と連絡取ってるのか、と訊いたら、「ああ、連絡つかねえんだよ。知り合いの子に訊いたら家にも帰ってないらしくてさ」という答えが返ってきた。ああ、そう、と半ば投げ槍に答えたら、「あの子を重要なポジションに置くつもりだから、携帯投げつけられたからって喧嘩すんなよ」と云ってキハチは電話を切った。
 噂は彼の耳には届いていないらしい。家に帰っていないのはおれが一番良く知っている。しかも紹介された翌日からおれの処に居座って、暴行三昧の挙げ句カマを掘られそうだとはとても云えない。
 どうすりゃいいんだよ。重要なポジションって役を増やすってことか?
 明日のスケジュールがひとつ空いてしまった。一要は帰りそうもないし、頼る相手も居ない。彼に女が居ると云ったのは真っ赤な嘘だ。真実は、つき合った相手と半年前に別れたのだ。普通の勤め人だったが、会社の上司の息子とあっさり結婚してしまった。まあ、賢明な選択ではある。
 世間に公開される媒体に出ている役者と謂えども、一般人からすれば不安定な職業にしか思われないし、それは真実である。何やら輝かしい世界に居るように見えても、それはすべて幻影なのだ。
 便所に行こうとしたら、入れ違いにタオルで頭を乾かしながら洗面所から出てきた一要とぶつかりそうになった。ふと手を伸ばすと、びくっとして体を縮こまらせた。殴られると思ったのだろうか。自分がぼかすかひとをどつき廻すのは平気でも、殴られるのは怖いらしい。
 まあ、誰でもそうだろうが。
 別に殴ろうとした訳ではなく、彼が着ていたTシャツがおれのに似ていたから確認しようとしただけである。サイズが合っていないところをみるとおれのらしい。怯えたような目をしているので、よしよしと云って頭を撫でてやったら、ぽかんとした顔をしていた。
 ベッドに這入ると、当然のようにもぐり込んでくる。襲いかかられるのだけは御免蒙りたいので、彼が眠るまで見張っていた。寝つきがいいらしく、すぐに寝息をたてはじめた。目を閉じていると子供のように見える。


 何か重たいものが腰のあたりに落ちてきて目が覚めた。起き上がってみると、一要のエレキギターである。
 彼はおれの寝間着を捲り上げ、火傷の状態をチェックしていた。膿みが乾燥して治りかかっている。アルコールを染ませた脱脂綿で乾いた膿みを剥がしに掛かったので、思わず「いったいなあ」と云ったら殴り飛ばされた。
 ものを投げつけられたり、蹴り飛ばされたりしながら朝食を済ませ、事務所にスケジュールの確認の電話をすると、予定されていた映画の撮りが明日に変更になったという。すると、今日は何もすることがない。
 ということは、一日中一要の暴力に耐えなければならないのか、と思ったら、暗澹たる気持ちになってきた。
 映画の撮りが変更になったのは野外の撮影だったのが、大雨で出来なくなった所為だった。カーテンを開けると、慥かに土砂降りだった。こんな天候では外へ避難することも出来ない。溜め息をついて煙草に火を点けた。お決まりのようにそれを一要が引ったくった。親に抗議の電話でも入れてやろうか、と思えてくる。
 今日の仕事の監督は、おれがただのエキストラだった頃から時々使ってくれるひとである。
 彼もやはり、おれの無個性なところがいいと云っていた。そう云うだけあって、清掃夫とか、銀行強盗に殺される役とかを振ってくる。今回は主人公の女高生が学校へ通う道で必ずすれ違う自転車に乗った男、という役だった。
 必ずすれ違わなければならないので出番は多いが、そんなものは主役のタレントの子のスケジュールに合わせて纏めて撮ってしまえば数日で終わる。が、この監督は映画の筋書き順に撮影しなくては気が済まないたちで、今回もこの映画の予定がぽつんぽつんとスケジュール表にあった。
 雨の日にすれ違うシーンもあるのだからそれを今日やればいいじゃないか、と思ったが、窓の外を見ると集中豪雨で、これは幾らなんでも無理かと諦めた。
 ソファーに座ってギターを弾いている一要を放っておいて、寝室に戻った。ら、ギターを弾きながら彼がついてきた。おまえはギターを持った渡り鳥か。
 着替えを持って洗面所に行き、溜まった洗濯物を洗濯機に放り込む。一要の服があるので、一度には洗えなかった。仕事が安定して真っ先に買ったのがこの洗濯機である。
 不規則な生活をしていると洗濯物に一番悩まされる。部屋に張り巡らせた紐に掛かった洗濯物のおかげで湿った空気の中で過ごすのは、実に不快なものだ。放り込んでおけば勝手に乾燥までしてくれるなんて、なんと難有い機械であろうか。
 アルバイトをしながら役者をやっていた頃と違って、朝から晩まで駆けずり廻るような生活ではなくなったのだが、どうしても洗濯物を溜め込んでしまう。単にずぼらな性格なのだろう。そういえば掃除もしていないな、と思って寝室へ戻ったら、ベッドで一要が寝ていた。
 よく寝る奴だなあ、と呆れてしまう。寝る子は育つと云うが、こいつは随分あらぬ方向に育ったもんだな、としみじみ思った。
 思ったが、クローゼットから掃除機を出してベッドの周りからガーガーやりだした。せめてもの復讐である。
 が、どれだけ掃除機が煩瑣い音を立てても、一向に目覚める気配がない。まさか死んでいるんじゃないだろうな、と心配になってきて覗き込んだら、いきなりベッドに引き摺り込まれた。しまった、謀られたか。犯される、おれの人生終わった、と思っていたら、体を踏みつけて向こうの部屋へ行ってしまった。
 何を考えているのだ、本当に。
 掃除を済ませ、乾燥した洗濯物を取り出し、また洗濯機のスイッチを入れた。一要が洗濯物を勝手に持っていってベッドの上でたたんでいた。自分のものを男にたたまれるのは気色が悪いので、ベッドの上から彼を蹴り落とした。横たわったまま動かない彼をほかっておいて、さっさと自分の物だけたたんで、箪笥に仕舞った。
 いつまでも彼は横たわっていたが、放置しておいた。
 午飯の支度をしてひとりで喰っていたら、やっと寝室から出てきて便所に行った。
 腹は減っていないのかと訊ねると、おれを椅子から蹴り落とし外へ出ていく。もう帰って来るなよ、と閉まったドアに向かって怒鳴った。
 ソファーに腰掛けて煙草を喫っていたら、彼が何も持たずに出ていったことに気づいた。鞄もそのままだし、ギターも寝室に一本、リビングに一本転がっていた。悪いと思いつつ鞄の中身を改めてみた。
 ファイリング・ノートとペンが二本、ピックの入ったケース、携帯電話も財布もあった。外は土砂降りである。
 まあ、小さな子供ではないんだし、クレジットカードを常に携帯しているのだろうと思うことにして、コンピューターに向かった。
 今度は会社名ではなく、山田一要で検索してみた。
 山田というありふれた名前が災いして、ヤマダ楽器とか山田工務店とか、関係ないものがぞろぞろと出てくる。一要という名から「参考…樋口一葉」と出ていたのには笑ってしまった。
 まあいいや、と思って台本の整理などをして時間を潰した。
 コーヒーでも飲むか、とキッチンへ行くと、玄関のドアに何かがどん、と当たる音がした。なんだろうと思ってドアを開けようとしたが、外側に障害物があるらしく開かない。
 無理矢理ドアを足で押し開けたら、びしょ濡れの一要が横たわっていた。揺すってみたが、どうやら本当に意識がないらしく、放っておく訳にもいかないので部屋の裡に引き摺り入れた。
 意識がない人間というのは、ぐにゃぐにゃでもの凄く重く感じられる。彼をリビングまで運んだだけで、どっと疲れてしまった。
 海から上がったようにぐっしょり濡れているので、取り敢えずバスタオルで拭いてやった。頬を何度か叩いてみたが目覚める気配がない。外傷もないし、どう見てもただ眠っているようである。
 救急車を呼んだ方がいいだろうか、と考えていたら目蓋がぴくぴく動き、一要は薄っら目を開けた。おい、大丈夫か、と声を掛けたらおれの体にしがみついてくる。全身が冷えきっているので、風呂を入れてくるから濡れた服を脱いどけよ、と云って彼の腕をほどいた。
 ナルコレプシーという病気のことを何処かで聞いた覚えがあった。突然眠り込んでしまう原因不明の病気だ。慥か色川武大という昔の作家が罹病していたと何かで読んだことがある。『マイ・プラーベート・アイダホ』という映画でも扱われていた。そうしたものを見知っても、身近なものとは思いもしなかった。
 一要はそういった眠り病なのだろうか。
 寝室からタオルケットを持ってリビングに戻ると、彼はTシャツを脱いで流しで絞っていた。タオルケットを掛けてやり、「おまえ、ナルコレプシーなのか」と訊いたら、殴り飛ばされた。これだけ元気があれば大丈夫だろうと苦笑した。
 彼が風呂に入るのを見届けると、洗濯物がそのままになっていることに気がついた。
 することもないので洗濯物をたたんでいると、タオルケットを纏った一要がやってきた。ちゃんと温まったか、と訊いたがそれを無視して、鞄を取り上げ寝室へ行ってしまった。鞄の中には薬の類いはない。原因不明だというし、突然寝てしまうものを予防する薬などないのだろう。
 考えてみれば不眠症よりも性質が悪い。眠れなくたって死にはしないし、睡眠薬など幾らでもある。しかし、いきなり眠ってしまったら事故に遭う可能性が高い。車も運転出来ないだろう。眠らずにいられる薬など不健康極まりないし、それは限りなく興奮剤に近いだろうから、合法ではなくなるだろう。


 七時頃にチャイムが鳴った。
 またケータリングの食事である。腹が減って一要が注文したのだろう。しかし彼は、寝室へ行ってみるとタオルケットにくるまって床の上に横たわっていた。
「おまえが注文したんだろ、飯が届いたぞ」
 そう云うと、黙って便所へ行った。溜め息をついて湿ったバスタオルを洗面所の籠に放り込んだ。なんでおれの服を着てるんだよ。
 彼はおとなしく食事をしている。時々おれのことをじっと視やるが、ものを投げたり蹴ったりしてこない。焼酎を水のように呑んでいるのを見て、眠り病の人間がこんなにアルコールを摂取していいものだろうかと心配になってくる。
 意味もなくおれの箸で喰ったりするものの、いつもよりは多く食べた。午飯を喰っていないから相当腹が減っていたのだろう。それでも普通の人間が喰う量より少ないのだが。
 煙草に火を点けておれを睨みつけている彼に、「旧市の近くの襤褸アパートに住んでるなんて嘘だろ」と云うと、ポケットから財布を出して投げつけた。中を見ると、クレジット・カードが一枚とIDカードがあった。
 現金は二万ちょっとしかない。携帯電話でIDカードのバーコードをスキャンして確認してみたら、慥かに東六区のアパートが現住所になっている。
 おれの手から財布を引ったくると、焼酎の瓶を持ってソファーに腰を降ろした。ついでとばかりに瓶をおれの頭にぶち当てて。
 グラスを持っていかなかったので、自分のとふたつ持って彼の隣に腰掛けた。「ラッパ飲みなんかするなよ」と云ってグラスを渡すと、驚いたように此方を見遣った。
「不良気取ってあんな処に住んでるのかなんだか知らないけど、おまえみたいな奴がひとりで暮らすのは危険すぎる。さっさとそんなとこ引き払って、親元に帰るか彼女のとこにでも行けよ」
 と云ったら、びんたを喰らわされた。
「じゃあ、気持ちが落ち着くまで此処に居てもいいから」と云ったら、おれに焼酎をざばざばかけて寝室へ行ってしまった。
 なんであんなことを云ったのか、自分でもよく判らなかった。おれのことを慕っているとしたら表現方法が異常極まりないし、亮子の死に対する腹いせで狼藉を働いているのなら、とんだお門違いだと真実をぶちまければ済むことである。
 翌日、目を覚ますと彼の姿はなかった。ただ、二本のギターはソファーの上に置いてあった。
 その日は撮影が重なっていたので、部屋に戻ったのは深夜である。
 部屋の灯りを点けると、ソファーに一要が丸くなって眠っていた。そんなことには驚かないが、シャワーを浴びた後寝室へ行き、スタンドに立てられた五本のギターとクローゼットの中にきちんと収められた彼の荷物を見た時には、さすがに驚いた。
 やれやれと思いながらウイスキーを呑んでいると、彼が起きてきておれの手からグラスを取り上げ一気に飲み干した。
「引っ越してきた訳?」と訊ねたら、張り倒された。
 キハチの映画でおれは一要の背後霊を演じる羽目になった。なんだってこんな目に遭わなければならないのだろうか。

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