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秋の夜

 同居人の清世が窓を開けて、「木下さん、月がとてもきれいですよ」と声を掛けた。コンピューターに向かっていたので眼鏡を掛けていたから、そのままベランダへ出た。彼女は手にカメラを抱え、嬉しそうに空を見上げている。写真を撮ることが趣味なのだ。趣味があることはいい。
 まん丸の大きな月が雲を脇へ従え、東の空に掛かっていた。
「大きな月だな」
「はっきりして、色も濃いです」
 そう云って清世は空へレンズを向け、シャッターを切っている。玄人が使うようなカメラではない。月を撮ったところで豆粒ほどにも写らないだろう。それでも楽しそうにカメラを構えている彼女を見ると、そんなつまらないことを指摘する気にはなれない。コンピューターに取り込んだ際に落胆するだろうが、その時に慰めれば済むことだ。
 彼女が最初にカメラを手にしたのは、おれたちのバンドのホームページの写真を撮る為で、それまでは携帯電話のカメラ機能しか使ったことがなかった。安いコンパクトカメラを買ってやり、それを手にした清世は自分に扱えるだろうかと云いながらも、嬉しそうにしていた。本人に任せた方がいいと思い、取扱い説明書を見ることもしなかった。好きなだけあって、そうしたことが苦手なのに熱心に説明書を熟読し、ほぼ完璧に扱えるようになった。
 それから三台目のカメラである。
 入れ替わりが早いような気もするが、デジタルカメラなど家電製品と同じ消耗品である。接触が悪い、液晶がいかれたと、素人からすれば些細な理由で駄目になるのだ。
 まあ、最初に買ったカメラも一応は動くらしいが、こうしたものはすぐに機能が古びてしまう。新製品が次々に出て、性能も良くなる。凝り出せば良いものを使いたくなるのはどんな分野でも同じだ。
 おれは自分の趣味である音楽関係の機材をあまり揃えない方だが、新しく出たものは一応気にする。エフェクターなどは滅多に買わないが、ギターはいいものがあると試し弾きくらいはさせてもらう。同じバンドのメンバーが楽器屋に勤めているのだ。
 今夜が満月だか三日月かなどと気にしたことなどないが、やはり写真を撮る者は視界に映るものに興味があるのだろう。常に意識しているようだ。こちらからすると何故これをわざわざ写すのだろうか、と思う代物を、嬉々として撮っている。
 彼女がレンズを向ける空は、晩秋の空気が澄んで月や星がよく見えるに違いない。
 違いないなどと云うのはよく見えないからで、おれは目が悪いのだ。視力を測定したら0.01だったが、医者が云うにはそこまでしか検査結果が出ないからで、多分それより悪いでしょう、とのことだった。眼鏡屋で測った時は0.05で、店ではこれが最低値なんですと云われた。
 商売でやっているところはそれで済むだろうが、医者まで精確な数値が判らないとは、医学に於ける眼科というのはどうなっているのだろう。
 免許を取るまで自分がド近眼だと気づかなかったおれが云うことではないか。
 乱視がかなり強いらしく、それで更に視力が悪くなっているようだ。それでもずっと裸眼で生活していた。よく見えている状態からいきなり悪くなった訳ではないので、それが普通だと思っていたのだ。
 それはないだろうって?
 そう感じてたんだからしょうがねえだろ。
 眼鏡屋で何やら判らない機械に顔をつけ裡を覗き、小さな平仮名や片仮名を読み上げ、赤と緑のどちらが濃いかとか、放射状の幾本か線のどれが濃く見えるかと、此方からすれば何を調べているのか判らないことをやらされ、そんなに煩雑なことをすればすべてを診断出来るかと思えば、冗談かと思えるような巫山戯た眼鏡を掛けさせられ、店の者はレンズを入れたり出したり動かしたり、ああだこうだとやって、出来上がった眼鏡は税抜き四千八百円だった。
 儲けがあるのだろうかと心配したほどである。おれの感覚からすると、こんな光学製品は数万はするものだと思っていたのだ。目の悪い知人に聞いたら、数年前はそれくらいしたと云っていた。此処まで安価になった理由はなんなのだろう。出来上がるまで(出来上がるというのも変な表現だが)四十五分と謳っており、実際、一時間後に行ったら普通に持って帰ることが出来た。
 しかし、眼鏡をずっと掛けている者に訊くと、昔は検査をして枠を選んで、注文してから最低でも一週間は掛かったそうな。
 価格も時間もこれだけ変わるのに、眼鏡業界でどんな事情の変化があったのだろうか。人件費が安い海外の国ですべてを作らせるようになったのだろうか。福井県は日本でも有数の眼鏡枠の産地らしいが、何を以ってしてそうなったのか判らない。福井と眼鏡の関連性が計り知れない。
 それはいい。
 目のいいひとには目が悪い人間の見え方など判らないだろう。此方としても説明のしようがない。譬えば壁掛け時計。文字盤の色しか見えない。カレンダーも数字など見えない。すべては滲んで灰色がかった何かにしか見えないのだ。
 眼鏡をはじめて購入しようと思った際は、店を見つけるのに苦労した。
 普段は立ち寄りもしない大型スーパーマーケットへ行ったのだが、服屋も雑貨屋も区別がつかない。何処も彼処も漫然と照らされ、店の看板も碌に見えやしない。置いてあるものすら近くに寄らなければ判らないのだ。その判らない状態が普通だと思っていた。

 眼鏡を誂えて、それを始終掛けるようになったかといえば、それはなかった。
 鼻や耳に当たる感じが非常に鬱陶しかったのだ。必要な時にしか掛けないのだが、普段必要としないものは気に掛けないのが普通である。だから手元にないことが多々あり、忘れ置くことが多かった。
 本を読む際は必要ない。顔を近づければ済むからだ。道を歩いていたって何かに躓くことはない。見えなくて困るのは、ホームで次の駅が何処なのか、その標識が読めなければ、環状線だと逆方向へ行ってしまう。腕時計をしていないのだが、そこら辺の電光掲示の時計が見えない。
 というか、すべてが碌に見えない。
 ならば眼鏡を掛けてちゃんと見ろよ、と思われるだろうが、眼鏡を掛けて思ったことは、見え過ぎて気持ち悪いということだった。実際、誂えた眼鏡を掛けて数十分もしたら、吐き気を伴う頭痛がして、すぐさま外した。
 ぼんやりした世界に馴染んでいたので、あまりにも明確に見えることが恐ろしかったのかも知れない。くっきり見えるものが気持ち悪かった。輪郭が迫ってくるようで、おぞましく感じた。世の中はこんなに汚らしかったのかと、戦慄すら覚えた。
 これならぼんやり見えている方がいい、なんなら何も見えなくたって構わないとすら思った。
 いや、見えなくなったら困る。様々なことで支障があるだろうし、本が読めないのは間が持たない以前に、苦痛ですらある。読書というのではなく、文字を追っていないと落ち着かないのだ。文字であればなんだっていい。出来れば活字がいいが、走り書きの文字でも構わないのだ。壁に書かれた落書きや商品の注意書きまでじっくり見てしまう。
 清世はそうしたものを映像と受け取り、写真に撮る。捉え方の違いが面白い。おれは細々した事物にあまり関心を寄せないし、それを記録に残そうとは思わない。
 否、そうでもないか。
 清世に木下さんは絵画や写真に興味があるとよく云われる。自分が意識していないだけで、そうした映像的なものに関心があるのかも知れない。デモテープを作る際にジャケットを作らなければならず、それを考えるのはおれだった。
 自ら何かを描き出す才能はない。だから既成のものを採用したが、それを切り取ったり加工したものが評価(というほどのものではないが)された。選択するものが「ゲージツ的」と思われたらしいのだ。そんな訳はない。おれはゲージツからほど遠いところで生きている。そもそも、芸術がなんたるかを判っていない。
 判る訳がない。
 芸術などという言葉は実に形而上的である。どんなものかと問われても、誰が明確に答えられるだろう。ましてや「アート」などと表現したならば、ただ胡散くさいとしか思えない。
 おれも音楽活動などしているが、自分がやっていることを「ゲージツ」などと思ったことはない。興味が向いて面白いと思ったことをやっているだけだ。
 バンド活動などをやっていると浮ついていると思われがちだが、曲を作り詩を書くのは労苦を伴う。あはは、おほほと出来るものではない。先に作るのは歌詞の方だが、おれが作る曲は演奏のみの部分が異様に長い。作曲する際はギターを爪弾いて適当にちゃらちゃら演って、固めてゆく。
 なんだ、遊びみたいなものじゃないかと思うかも知れないが、ちゃらちゃら弾けもしない奴から云われたくない。ちゃんと曲に昇華する音を構築しているのだ(その途中だが)。
 ロックミュージックなど適当にじゃかじゃかやっているだけだろうと思われるかも知れないが、曲を作る場合、先づメロディーラインを作り、それに合わせたギターのフレーズを考える。そこからリズムを考えてゆくのだが、ベースは割合はすぐに出来るものの、ドラムは難しい。
 弦楽器が専門なのもあるけれども、演ったことがないひとには判らないだろうが、あれはただ太鼓を叩いている訳ではない。演奏のすべてを担っているのだ。
 ドラムが目立たないのは奥に居て見えないだけではない。曲だけを聴いている側にはただ、リズムを刻んでいるメトロノームのような存在にしか思えないのだろう。
 それは或る意味、正しい。
 的確にリズムを叩き、それが外れることは許されない。機械のような精確さを求められながら、柔軟な技術も求められる。んなこと、ちょっとやそっとで出来るかよ。
 ロックミュージックが好きでライブハウスへ行くようなひとは、目を凝らして(奥に居てよく見えないから)その動きを見るがいい。どれだけの技術が必要で、曲のすべてを支配し、少しのずれも許されず動き続けているかを。
 ドラムは演奏のすべてに影響を及ぼし、その技術がバンドのすべてを左右する。ドラマーが糞なバンドは、押し並べて楽曲がうんこだ。おれがやっているバンドのドラマーは技術が素晴らしく、平伏したいほどである。辞めて余所のバンドへ行くと云われたら、土下座してでも引き止める。舐めろと云われたら、靴の裏だって舐めるだろう。
 それくらい凄い奴なのだ。
 おれもドラムを担当したことがあるから判る。ドラマーは孤独だ。ベーシストとギタリストは何やら盛り上がり、頭を連獅子のように振って演奏している。その奥で、ドラマーはひたすらリズムを刻んでいるのだ。その疎外感は如何ばかりであることか。淋しかろう。
 それどころではないか。
 おれがドラムを担当することになったのは、中学生の頃に遊びのようなバンドを組んだ際で、ドラマーがリズム音痴としか云いようがなく、みんなが迷惑がっていた。それを或る時、ベースのリーダーがやり難いときっぱり指摘したのだ。
 不味いな、とおれは思った。
 そんなことはみんな判っていたし、たかが中学生の部活のバンドだから、敢えてそこに触れなかったのだ。しかもそんないちゃもんをつけたあと、彼はおれに向かって「木下もそう思うだろ」と振ってきた。
 そんなことを云ったのなら最後まで自分でけりをつけろよと思ったが、つい、そいつはリズム音痴なのではないかと云ってしまった。当然のことながら、ドラム担当の男は気分を害した。喰って掛かるように、それならおまえが演ってみろと云われ、厭々ながら叩いたこともないのに演ってみたら、出来てしまった。
 当時からカバー曲のアレンジや、拙いながらも自分がこさえたものを作曲していたので、当然、すべてのパートを考える。実際に太鼓を叩いて作曲する訳ではないが、コンピューターでリズムを弄り、何をどう叩くかは把握している。それを実行に移すだけなので、出来てしまっても不思議ではない。
 しかしドラムの彼は面白くなかったようだ。おれの代わりにギターを担当することになったものの、お世辞にも巧いとは云えず、バンド内でも孤立し辞めていった。
 おれが悪いのかと思い懊悩したが、リーダーは「木下は悪くない。演りたくもないドラムを担当して、あんな小学生みたいな苛めを受けて、それでも黙ってた。おまえは偉いよ。才能があるのにそれをひけらかさないし、あいつにも何も云わなかった。おれはおまえを認める、っていうか、尊敬するよ」などと、こそばゆいことを云った。
 慥かにドラムは初心者以下なので熱心に練習した。ひとが居なくなった部室で、納得がいくまで叩き続けた。それでも、満足のいくところまでは上達しなかった。ひと前で演奏するのが申し訳ないほどだったのだ。

 清世がおれに見せた月は、眼鏡を掛けていてもぼんやり滲んでいる。裸眼であれば薄黄色い丸いものが空に掛かっているとしか思えないだろうし、星などひとつも見えない。三日月など、櫛切りにした玉葱のようにしか見えない。
 彼女が目に見えるものの面白さをおれに教えてくれる。おれが気づかない景色の美しさを教えてくれる。音楽と文字にしか関心のなかったおれは、彼女の景色、色、画像、映像に対する興味が新鮮に感じられる。視覚がどれだけ神経や精神に刺激を与えるものかを知ることが出来た。
 些細なものの美しさを気づかせてくれるのだ。おれがくだらない塵芥だと思うものでも、清世はきれいだ、可愛いと喜ぶ。そんなことを云う彼女の方が可愛いのだが、本人はそれを意識してやっている訳ではない。それがまた可愛らしい。
 夜の冷えた空気に金木犀の香りが漂っている。もう秋なのだ。

2017,10,01 某ブログにて。

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