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八月の海

 飯の支度が出来たと云われて食卓に着いたら、小鉢のようなものばかり並んでいる。なんじゃこれは、と云ったら、「本日はおつまみオンパレードです」と影郎は云った。
「ええやん。判ってきたのう」
「全部作り置きしたやつ」
「褒めて損した。手抜き仕事やがな」
「これを作るのには手間をかけたよ」
「庭のもんばっかかい」
「肉と卵以外は」
「そらそうじゃろうけぇど」
 影郎は十代の終わり頃から庭に畑を作り、野菜を育てている。素人に食べられるほどのものが作れるだろうか、と思っていたが、何やらあれこれ調べて熱心にやっていた。何かに熱中する性格ではなかったが、畑仕事だけは飽きずに続けた。
「これはピーマンのオイル漬け、これはズッキーニと唐辛子と大蒜のオイル漬け、こっちは卵の黄身の醤油漬け、それは豚バラ肉の塩漬け」
「漬けもんばっかじゃの」
「保存食だから」
「酒はビールかな。おまえも飲むんか」
「飲む。日本酒」
「一杯だけやぞ」
「判ってるよ」

ピーマンのオイル漬け
 ピーマンは網でこんがり焼いて皮を剥く。
 瓶に入れ、塩をふり入れ、胡麻油とオリーブオイルを浸るくらい入れる。

ズッキーニのオイル漬け
 ズッキーニは皮を部分的に剥き、一センチほどの輪切りにして天日で干す。
 瓶にズッキーニとスライスした大蒜、種を取り除いた輪切りの唐辛子を入れ、塩をふり入れオリーブオイルを浸るくらい入れる。

卵黄の醤油漬け
 卵の黄身を保存容器に入れ、味醂と醤油を浸るくらいかける。
 三日ほど冷蔵庫で寝かす。

豚肉の塩漬け
 豚バラ肉を一口大に切り、キッチンペーパーを敷いた保存容器に並べ、一段ごとに塩を入れてゆく。
 キッチンペーパーで表面を覆い、蓋をして冷蔵保存する。
 水が出てきたらペーパーを取り、また肉をペーパーで巻いて保存する。
 五日程漬けたら、瓶ごと鍋に入れ、水から四十分煮る。

「この卵、ご飯で喰うと旨いんちゃう」
「美味しいだろうね」
「そんな味、濃いくないからええのう」
「自家製の良いところは塩分の加減が出来るから」
 彼は料理が好きで、子供の頃から作っていたが、それが嵩じて漬け物やら乾物まで作り、台所はそれらで溢れかえっている。家では食べきれないので近所に配ったりしていた。
「ズッキーニに卵まぶしても旨いわ」
「お酒が進むねえ」
「進まさんでええ」
「ちびちび飲んでるからいいの」
「最近しょっちゅう帰ってけえへんけど、何処行ってんねや」
「友達んち」
「おんなじ子ぉか」
「うん」
「悪さして歩いとるんちゃうじゃろうな」
「そんなことしてないよ」
「ならええけど」
 これまで不真面目としか云いようのない生活をしていたのだから、信用出来なかった。
「信用してよ」
「これまでがこれまでじゃけぇの」
「この頃は真面目にやってるよ」
「まあ、バンドやめてバーで働いちょるしな。ちゃんといろいろ教えてもろとるんか」
「うん。開店の仕方とかも教えてもらってる」
「ほおか。どんくらい掛かるん」
「居抜きの店を借りるんなら、だいたい五百万くらい用意すればいいみたい」
「意外と安いんやな」
「何階の店舗かで違ってくるんだけど。やっぱ一階は高いみたい」
「まあ、路面店はひとが這入り易いでのう」
「内装を変えなかったら安く上がるし、瓦斯を引くか引かないかでも違うし」
「ショットバーなら瓦斯は要らんわな」
「うん。つまみはナッツくらいでいいって云ってた」
「そんなもんじゃろな」
「今の処でお酒の卸問屋も紹介してくれるって」
「ええとこで働いたな」
「店のひとも凄く良いひとだよ」
「そおか」
「それだけで足りる?」
「じゅうぶんじゃ」
 結局このあと、ぼくと友人の甘利と影郎の親が出資して居抜きの店を買い取り、彼はショットバーを始めた。亡くなるまでそこを切り盛りしていたが、その後は彼と暮らしていた草村紘が引き継いで経営している。もの静かで控えめな男にそんな商売は向かないと思ったが、どうしてもやりたいと云うので承諾した。
 草村君の嘆きようは見ている此方が辛くなるほどだったので、影郎と同じ仕事をすることでその疵が癒えるのなら好きなようにさせた方がいいと思ったのだ。甘利も彼の同僚の木下亮二もそれに同意してくれた。

 夏の或る日、麦わら帽子を被って照りつける陽射しの中、影郎は畑仕事をしていた。それを眺めながら新聞を読んでいたが、どうにも暑い。細い体をしてよく平気なものである。あまりに暑いので、縁側から冷房の効いた居間へ戻った。
 午飯の食卓にはやけにきれいな丼があった。
「随分色鮮やかな丼やな」
「夏野菜は彩りがいいからね。ズッキーニと茄子とトマトと挽き肉」
「旨いんか、こんなサラダみたいなんが」
「ちゃんと炒めてあるよ。此処にポーチドエッグ載せるし」
「ほう。そら旨そうやん」
「ご飯は五穀米」
「それはどうでもええわ」
 熱湯に酢を垂らし、卵を割り入れ、白身がうだった頃を玉杓子で掬い、丼の上に載せ、はい、出来た、と影郎は云った。渡されたスプーンでひとくち喰ってみたら、旨かったので「いけるやん」と云ったら、実に満足そうな笑みを浮かべる。
「左人志は休みに殆ど出掛けないけど、友達居ないの?」
「おるわい。おまえと違ってまともなんが」
「おれだってまともな友達ばっかだよ」
「よくゆうわ。あれがまともやったら刑務所におる奴も正常じゃ」
「そんなことないもん」
 膨れっ面をして、影郎は丼を掻き廻していた。
「今日は休みだけど、どっこも行かないの?」
「んー、何処か行きたいとこあんのけぇ」
「特にないけど、閑だから」
「なんでわしがおめえの閑潰しにつき合わなあかんのじゃ」
「いいじゃん、左人志も閑そうにしてるんだし」
「図々しいやっちゃな。何処連れてきゃええの」
「あんまり行かないとこ」
「そうじゃの、釣りにでも行こか」
「釣り? 竿とかあるの」
「納戸に入れたある」
「おれやったことないけど、出来るかな」
「釣りなん、洟垂れのガキでも出来るわ」
 ぼくの実家は海の近くだったが、父は釣りをせず、影郎が夏休みなどに来て海へ連れて行ってやっても、泳ぐこともなく釣りもしなかった。彼は自分から何をやりたいとはまったく云わないので、適当に遊んでやっていた。
「何処に行くの?」
「磯の方行こうか。彼処なら車停められるし」
「なんか特別な恰好しなきゃいけないの?」
「別に漁師みたいな身装する必要はないよ。まあ、陽射しが強いから帽子被って、長袖のシャツ羽織ってきゃええのと違うか」
「ふーん。釣りキチ三平みたいなのでいいのか」
「釣りキチて、おまえようそんなん知っちょるのう」
「リョウ君がおまえ本読まないんだから、漫画くらい読めって云うから」
「ちゃくちゃくと教育してってくれとるな」
「頼んだの?」
「頼んでえへんけど、あの子も見るに見兼ねたんじゃろ」
「なんだよ、それ」
「胸に手え当てて考え」
「……考えたけど判んない」
「実際にやってどないすんねん、あほか」

「釣り道具屋に寄って、餌買わんとな」
「餌って何つけるの?」
「イソメ」
「どんなの?」
「短い足がいっぱいあって細長い」
「……他にないの」
「疑似ワームもあるけど、それで釣れるかどうか保証は出来ひんど」
「それでいい」
「なんちゅうヘタレなんじゃ」
「ヘタレでいい」
「情けないのう。蟲触れへんねやったら、サビキにするか」
「それはどういうの」
「小さい籠にアミ入れて揺すって、魚おびき寄せて釣る方法」
「それがいい」
「初心者向きやで恰度ええわ。そうすると、竿や仕掛けも買わんといかんな」
「いちいち違ってくるんだ」
「釣る魚に依って針も糸も違ってくるで」
「サビキだと何が釣れるの」
「まあ鯵やけど、運が良きゃチヌが釣れることもあるわな」
「チヌって?」
「黒鯛」
「黒鯛が釣れるの」
「運が良きゃな」
「釣れたら刺身にしようか」
「そういうの、なんてゆうか知っちょるけぇ」
「なに?」
「捕らぬ狸の皮算用」
 影郎はそれを聞いて声を立てて笑った。よく笑う子だった。彼が家を出て行った時は、まるで火が消えたように感じたものだ。ふたりで居るとどうでもいいようなことを常に喋っていたので、ひとりの淋しさが身に沁みた。

「この籠にアミ海老を掬って入れるんじゃ。袋ん中でやれよ、手え臭うなるで。あんま触らんように」
「これくらいでいい?」
「ああ、そんなもんでええ」
「なんか臭いね」
「おめぇ、料理するで生臭いの平気じゃろう。ほんで、仕掛けを海面に落として、上下に揺すってアミを散らす感じで、そうそう」
「左人志は違う仕掛けだけど」
「わしゃあ、別のもん狙うけぇの」
「何を?」
「釣れたら判るわ」
「そうやって振りかぶるよねえ、普通は」
「サビキでこんなんしたら餌がぶちまかってまうじゃろうが」
「ああ、そうか」
「籠の中身なんすぐのうなるで、自分で追加せえよ」
「判った」
 糸を垂らしても当たりはなかった。場所を変えたら掛かったが、小さかったりヒイラギだったり時には子供の河豚だったりで、すべて放した。影郎が大きな声で名前を呼ぶのでそちらへ行ったら、三尾の三番叟が掛かっていた。
「はあ、吃驚した」
「何も吃驚することあらへんやん、釣れたんじゃけぇ」
「だって一度に三匹もかかってたから」
「六本も針ついとんじゃけ、少ない方やで」
「左人志は釣れたの」
「外道ばっかやで、全部放した」
「外道って何?」
「目的のもんやなかったってこと」
「凄い云い方だね」
「まあな」
 生きている魚には触れないと云うので、針から外してクーラーボックスに入れた。影郎は興味深そうにそれを眺めていた。
「これ、食べられる?」
「喰えるじゃろう、普通」
「素揚げにしようかな」
「そら美味いわ」
「もう薄暗くなったから帰ろうか」
「そおやな、いつの間にやらこんな時間になっとったか。どおじゃ、愉しかったか」
「うん。釣れないと思ってたのに三匹もかかったし」
「はじめてにしては上出来じゃて」
「これ、なんていう魚?」
「三番叟。石鯛の子供やな」
「ふーん。鯛っていろいろ種類があるんだね」
「鯛とちゃう、鱸の一種」
「そうなんだ」
「もう時間も来とるし、片づけて車に積み込むで」

石鯛
 スズキ目イシダイ科
 日本近海に棲息する肉食魚で、食用や釣りの対象として人気が高い。若魚を島鯛、口黒、三番叟とも呼ぶ。
 成魚は全長五十センチほど。中には七十センチに達するものも居る。体色は白に黒い縞が七本入る。
 甲殻類、貝、雲丹などを食べる。
 三番叟は、能楽用語に由来する。英名はStriped beakfish(縞の嘴のある魚の意)Barred knifejaw(帯のあるナイフのような顎の意)などがある。
 身は白く、四十センチまでが美味とされる。大型になると味が落ち、シガテラ中毒の危険性もある。主な調理法は刺身、塩焼き、煮つけ、唐揚げ、ポワレなど。

 晩飯には釣った魚が並んだ。
「マヨネーズに黒いつぶつぶが入っちょるけど、なんなん」
「トリュフ」
「また贅沢なもんが入っちゅうのう」
「既製品だよ」
「からっと揚がって旨そうやな」
「鱗が細かくて調理が楽だった」
「おめぇ、前は魚捌けれぇへんかったのに、強うなったのう」
「だって可哀想だったから」
「可哀想ゆっても、喰われるもんはみんな生きとるでの。そらあ、魚ばっかやないで」
「うん、そう思って開き直った」
「開き直ることも時には必要じゃけぇの」
「そうだね」
 影郎と釣りをしたのはこれきりだった。一緒に過ごした最後の夏だった。
 夕闇に濃く沈む海を思い出す。もっと話せば良かった。もっといろいろな処へ連れて行ってやれば良かった。あの笑顔をもう一度見たい。あの声が頭の中に響く。ぼくの名を呼んで慾しい。
 何故あんなに早く死んでしまったのか。影郎が何をしたというのだろう。何もしなかったではないか。何も成し遂げないまま殺して、どうしようというのだ。
 運命に抗えないことくらい判っているが、あの悲惨な姿を思い出す度、遣り切れない思いに囚われる。時間が戻せるならば、この家を出て行かせず、ずっと手許に置いておけば良かった。手放したことが運命を変えたのなら、やり直して取り戻したい。
 もう、どう仕様もならない。すべてが取り返しのつかない処へ行ってしまった。無情な時の流れに我々は翻弄され、死んだ者は静かにそれを傍観しているのだろう。


 夏の宵。
 桐灰色のビルの陰から、笑った月が顔を出す。
 冷ややかにぼくを嗤う。
 夢は高架下の溝水に沈んだ。
 検疫を逃れたまくわ瓜を抱えた少女。
 その白い臑に纏わりつく赤茶けた猫。
 慾望の彼方に消える防波堤。
 波頭に煌めく煽情。
 寝過ごした先の針の山。
 ゆき先も告げずに旅立った友。
 シベリアの奥地で、凍りついた感情。
 立てつけの悪い扉の向こうの、君。
 薄く笑って振り向き様に拳銃を構える。
 心臓を狙って。
 外すといけないから、頭を狙った方がいいよ。
 膨らんだ蕾を隠した桜の樹。
 満開のその袂で酒を酌み交わしたのは誰だったか。
 誰も居ない用水路の脇で。
 尖った尾の海鷂魚が、横切る。
 居もしない釣り人。
 知りもしないひと。
 すべてを放り投げたところで、それは自分に降り掛かる。
 混沌の彼方。
 貪婪な慾望に懶惰な寝床を用意する。
 独り寝の腐敗。
 枕を切り裂き、舞い上がる羽根で窒息した。
 それは誰なのか。
 鉄錆色の染みに、重曹水を掛ける。
 泡立つオキシドール。
 見上げるビル群。
 夢の彼方に、それは在った。
 パチンコ屋の狂騒。
 ライブハウスの気取り。
 バー・カウンターの倦怠。
 爛れた有線のジャズ・チャンネル。
 スイッチをひねるバーテンダー。
 無言のひとびと。
 姦しいひとびと。
 死んだひとびと。
 だれかのあなた。
 どこかのあなた。
 ゆらめくじぶん。
 脳髄が、反転して、崩れ落ちる。
 それを踏みつけにする君。
 それを受け入れるぼく。
 マゾヒスティックな感覚が交差する。
 痛みを感じるのは簡単だよ。
 痛みを感じないのは難しい。
 意識を遊離させ、
 意識を飛ばして、
 あなたを忘れて、
 何処へゆこう。
 宇宙は永遠に膨張する。
 果ては無い。
 瞬間が積み重なり、それはやがて途方も無い時間になり、
 すべてが消えゆく。
 夏の重たい空気の宵闇の中、
 何処からか聴こえる猫の啼き声に、
 発情した。

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夏の思い出

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