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この世の中で

 わたしの名は木下亮二と申す。名前からすると次男のようだが、ひとり息子で兄弟は居ない。父親がつけたと謂うので理由を訊いてみたら、自分が孝一だから二をつけたとのことである。返す言葉がなかった。
 だが、わたしはあまり物事に拘らない性格をしていたのか、「ああ、そう」と思っただけであった。
 そして、普通の社会人として生き、長らく同居していた女性と三十七で正式に籍を入れ、すっとぼけた両親は父の定年後、五年ほどしたら母方の爺さんの家に楽隠居を決め込んだ。理由は訊かなかった。わたしはひとのすることにいちいち口を挟む性分をしていないのだ。
 まあ、隠居先の環境はいい。が、非常に不便な処である。わたしはそこと、祖父のことがとても好きだった。祖父は周囲から変人と云われていたが。
 で、両親はてきぱきと住まわっていた土地家屋をわたしに生前譲与する手続きを済ませ、猫とともにそこへ越したのが四十五の時であった。
 二十二才で実家を出てから二十三年、滅多に帰らなかったが、家屋そのものは三年前に大幅な改築をしてきれいなものである。周囲の環境も殆ど変わっていない。近所に挨拶をしたら、同級生の親などに懐かしがられた。
「あらまあ、亮二君、久し振りねえ。ご両親、田舎に引っ込んじゃったんですってね。どちらなの?」
「母方の田舎で、岐阜の山奥です」
「そうなの、良い処なんでしょうねえ。羨ましいわ」
 同級生本人も結婚して戻ってきたりしていた。いい年をして独身の者も居たが、そのひとりがわたしと長年バンドをやっている牧田俊介である。女にモテない訳でもないのに、選り好みが激しいのか、一向に腰を落ち着ける気配がない。
 この前の年に父親が病に仆れ、その看病をしているが、呑気な野郎である。何故結婚しないのか訊ねたことがあるが、縁がないと云うだけであった。
 わたしの知る限りかなりの女性とつき合っている筈だが、何が気に入らないのだろう。もしかして変態なのだろうか。
 旅行など滅多にしないのだが、一度、バンドのもうひとりのメンバーである江木澤閎介も含め、三人で北の方へ当てどもなく行ったことがあった。冬期休暇を利用しての旅だったが、三人で交替に車を運転し、適当な旅館に泊まり北海道まで行った。
 妻の清世と旅行したのは二、三度しかなかったが、わたしがそんなに出掛けることが好きではないので、誠に申し訳ないことをしたと思っている。ただ、何を訊いても「わたしはいいですよ」と云うので、本心は判らない。
 行きたかったら友人とでも行くだろうから、彼女も旅行がそう好きではないのかも知れない。そして、もうふたりで旅行するようなことはないだろうと思っていた。
 なにしろうちには猫が何匹も居るし、あと十年で定年退職すると謂う頃になって視力が著しく低下し、会社を辞める頃には殆ど見えなくなってしまったのである。特に気落ちはしなかったが、彼女の方が嘆き悲しんだ。泣こうが喚こうが見えるようになる訳でもない。
 退職した年の冬になった頃に、牧田とふたりで今度は南の方へ旅行した。
 目が見えなくてはたいして愉しめないが、彼は何くれとなく気遣い、なるべく快適に過ごせるようにしてくれた。結局、屋久島まで行って、乗って行った車は業者に頼み、飛行機で帰った。
 飛行機に乗ったのははじめてだったが、疲れていたので空港に着くまで熟睡していた。帰宅して妻の声を聞いて思ったのは、置き去りにして申し訳ない、ただそれだけであった。
 そもそも旅行が嫌いなのだから、男と長旅をするより、愛する妻と旅をする方がいいに決まっている。わたしは、憚りながら妻以外の人間と交流することに意義を見出せない。それほどまでに妻を愛しているのだ。直接には口が裂けても云えないが、彼女の為ならばどのようなことでも出来るほど愛している。彼女を悲しませる物事に対しては容赦しない。
 そう思っていたのに、彼女を一番苦しめたのはわたしであったと謂う事実。死んだ方がましだと思ったが、愛しい者の泣き顔に生きようと思い止まった。苦しくても、辛くても、彼女の為ならば耐えてゆけよう。
 そして、家族サービスと謂う訳ではないが、清世とともに旅行することにした。
 何処へ行きたいか訊ねたら、前に行ったことのある島に行きたいとのことだった。そんな近い処でいいのかと思ったが、盲人を連れて遠出をするのは荷厄介に違いない。
 猫はどうしようかと思ったら、牧田が留守の間見てやると云った。動物を飼ったことのない彼に面倒が見られるものだろうかと思ったが、小学生の頃に飼育係をしていたと云う。そんな黴の生えた記憶で引き受けてもらっては困る。なにしろ六匹居るのだ。
 牧田と旅行して、戻ってきて暫くしたらタンゲと謂う猫が死んだ。二十五年も生きたので、猫としては大往生である。しかし、一般的には長生きだろうが、此方としては死んだ事実に変わりはない。この世の終わりが来たくらいに悲しかった。
「飼育係って、どんな動物が居たんだ」
「んー、セキセイインコと鶏と兎かな」
「兎か。哺乳類の世話はしたことがあるんだな」
「姉貴の子供の面倒も見たことがあるよ」
「おまえ、子供、嫌いじゃなかったか?」
「別に嫌いじゃねえよ。おまえほど好きじゃないだけで。子供、なんで作らなかったんだ」
「一応、出来たけどな」
「……そうなのか、知らなかった」
「誰にも云ってないからな。五ヶ月足らずでいつも流れちまうもんだから」
「ああ、安定期に入る前か」
 子供のことは親にも云っていなかった。ふたりでひっそり水子供養しているだけであった。家族は妻と猫だけなのに、生まれてこなかった子供と死んだ猫の墓だけは一人前にある。
 無宗教なので仏壇はないが、何もしないのは後生が悪いので、墓はちゃんと寺にある。ただ、坊さんに説教を垂れられても、難有くもなんともない。別に捻くれている訳ではない。
 信じてもいないものについて何かを云われても共感出来ないだけである。それは誰しも同じであろう。


 わたしは当然のことながら車を運転することは出来ない。清世の運転は近所なら兎も角、一時間も走らせた先の場所へはとてもじゃないが任せられない。牧田の車はスポーツカーなので、何うにも乗り心地が(わたしには)悪く感じられる。
 と謂う訳で、江木澤に頼んだ。閑にしているからとふたつ返事で承諾してくれた。持つべきものは善き友人である。
「へえ、島に行くのか。羨ましいな。そういえば昔、同じ処に行かなかったっけ」
「ああ、行った。清世がもう一度行きたいって云うから」
「そんなに良い処なの?」
「いや、何もない」
 実際、その島は釣りをするか飯を喰うことくらいしか楽しみがない。そのどちらもわたしは愉しめないと来ている。
 もともと食に関心がなかったのだが、目が見えなくなってからますます食べることに興味を失った。食事と謂うものは、目から入る情報がかなり大きいことが判った。
 調べてみたら食慾を増す色と減退させる色があって、暖色系は食慾を増し、青、それも絵の具やクレヨンのような原色の青は、食慾を減退させるらしい。緑や黒はそうでもなく、赤が一番そそるらしい。
 斯う謂ったことは以前なら自分で調べて読めば良かったが、現在は清世に読み上げてもらっている。年を喰ってから失明したので、点字などはとても覚えられない。触ってみたが、ただのつぶつぶにしか感じられなかった。指先が相当鋭敏でないと、あんな小さな点は判別出来ない。
 視力がかなり落ちて眼科へ行った時、両目でも一番上のランドルト環が見えなかった。開いている処が見えないと謂うのではなく、ただの滲んだ灰色の何かとしか認識出来なかったのである。帰りもタクシーの方がいいと云われたのだが、貼り出してある電話番号が読めず、受附の女性に掛けてもらった。
 財布から金を出すのもままならなくなり、はじめてクレジット・カードを作った。
 仕事を辞めるつもりで専務に相談したら、辞める必要はないと云われ、そう謂う訳にはいかないと親しかった会長に会いに行った。
「木下君、なんか目が悪くなったんだってね。どれくらい悪いの?」
「かなり悪いです。ですから、もう仕事は満足に熟せないので専務にそのことを伝えたんですが、辞めなくていいと云われて困っているんですけど」
「困る必要はないんじゃないかな。眼科は専門外だけど、何処の医者に掛かってるの?」
「会社の近くの内田眼科です」
「ああ、彼処は薮じゃないけど、単なる町医者だからなあ。仁科総合病院に眼科の権威が居るから紹介状を書いてあげるよ。まあ、仕事の方は書類のチェックとかじゃなくて、面談とか接待とかをすればいいんじゃないかな。部長なんだからそう謂ったことでいいと思うよ」
 そして、行きは兎も角、帰りは毎日社用車で送って貰うことになった。
 入社した時から特別扱いされて、何かした訳でもないので申し訳ない気がしたが、誰も何も云わない。普通なら風当たりが強くなりそうなものだが、目を掛けている人間が最高責任者だったからなのだろうか。
 入社した時の社長もその兄も、何を考えているのか判らないが、わたしを妙に気に入ってくれて、よく話したものである。現在は会長の息子がその跡を継いでいるが、世襲制ではないらしい。出来はいいのだろうが、つき合うのに非常に疲れる人間なので、その息子の武志は避けている。


 目が見えないと揺れるものの上と謂うのは不安である。甲板など恐ろしくて行く気になれないので中のベンチに腰を落ち着けたが、 清世にまでつき合わせることはないと思い、好きな処へ行ってこいと云った。
「いえ、わたしも此処に居ます」
「写真でも撮ってきたらどうだ」
「そんなのはいいです。わたしは木下さんの傍に居たいんです」
「おれの傍なんかうんざりするほど居るだろうが」
「うんざりなんかしませんよ」
 彼女はいつもそうだった。
 つき合いだした頃から現在に至るまで、わたしの傍に居るだけで満足しているようだった。何かしてやった訳でもないのに如何してそこまで思い込めるのか判らないが、難有いことである。
 彼女と巡り合わなければ淋しい老後を送っていただろう。
 両親はわたしが失明したことを知らぬまま亡くなった。ふたりとも彼女に感謝していた。母は清世の手を握り締め、「あなたが居なければこの子は一生独り身だったと思う。本当にありがとう」と云っていた。
 島は、清世に依ると四十数年前に来た時から何も変わっていないらしかった。その時に泊まった旅館はもうなくなっていたが、今回予約した宿も似たような処らしい。価格は違うらしいが。
 部屋に通されて、あの時と同じように次の間の腰掛けに座った。前と違って景色は見られないが、窓を開けてもらったので風を感じることは出来た。海の匂いが幽かにする。
 生まれ育った場所は海のある街だったものの、それほど近くないので潮の香りを感じることはない。歩いて行けなくもなかったが、この齢になってはきついものがある。
 清世と長く暮らしたアパートの近くに川はあったけれども、海からは遠かった。海のない地域からすればすぐそこにあるのだが、この距離感は、近隣に海がある者なら理解出来るのではなかろうか。
 そこに住んでいる時、車でよく誰も居ない磯へ出掛けた。
 ひとりの時もあれば清世と行くこともあった。
 一度、ライブによく来る少年を連れて行ったことがある。無口な彼には手がふるえる持病があって、コンビニエンス・ストアーで買った弁当の蓋を開けるにも難儀していた。が、敢えて手伝わなかった。やっとの思いで蓋を開けた彼に割り箸を渡すと、少し安堵したような表情でわたしを見遣った。
 昔、この島へ来た時に清世が釣りをしたがったが、知識がなく、興味もさほどなかったのでやらずじまいだった。その後、適当な竿を買って磯で糸を垂らすようになった。誰も居ないだけに穴場でもなんでもなかったらしく、何もかからなかった。
 江木澤はひとりで居るのが苦手らしいが、わたしはどちらかと謂うと孤独を好む方である。お喋りでもない。清世と暮らしだした頃も、卓袱台を挟んでぽつりぽつりと話すだけだった。
 彼女もそう饒舌な方ではないので、部屋の中は静かなものである。猫たちも喧しく鳴き立てない。
 それなのに、長年ロックバンドなどと謂う喧しいにもほどがあることをやっていた。現在も時折三人でスタジオを借りて演奏し、戯れに録音したものをかつて勤務していた図書センターから世間に公開しているが、その反応が何う謂ったものかはまったく知らない。
 ライブ活動をしていた頃は店がアンケート用紙を配るので厭でも感想を目にしたが、そのようなものは知らなければ知らないで済ませられる。
 若い頃は非常に気が短く、細かなことにもいちいち腹を立てたものだが、中年期を通り越したらそれほどでもなくなった。清世がまったく怒らない性格をしているので似てきたのかも知れない。
 彼女はわたしが失明したことで、それまでとは違った一面を見せた。
 頼りなく世間知らずで、いつまでも少女のような部分が抜けなかったのだが、急に老成してきた。老成と謂っても年寄りくさくなった訳ではなく、母性が強く現れてきたのである。
 猫に対してはそのような部分がちらほら見え隠れしていたが、わたしに対してはすべてを投げ出して頼るようなところがあった。そうされるのが嬉しくもあったので、厳しいことは云わずにいた。女がきりきりと逞しくあるのは好まない。
 しかし、彼女は性格的に尖ったところがまるでない為に、確乎りしてきたと謂っても柔らかな感じである。
 視力が著しく低下した時は彼女にそのことを長く隠していた。煩瑣く心配されたくないと謂う自分本位な理由だったが、牧田が事実を打ち明けた時の嘆きようを耳にして、本当に申し訳ないことをしたと思った。
 わたしからではなく他人から聞かされたことも、わたしが長らく黙っていたことも、彼女にとっては衝撃だったのだろう。
 大切に思っていたが、配慮が足らなかった。


 若い頃と同じように床屋に行かなくなったので、また髪が伸びてきていた。時々清世が切ってくれるが、触ってみると昔と同じような髪形にしてある。よく適当に切っていたものを真似られるものだ。よほど気に入っていたのだろうか。
 まあ、前髪は彼女の好みにしていたのだが。
 窓から吹き込む風に髪が弄ばれる感覚が懐かしいものに感じられる。
 大学受験を控えた辺りから床屋へ行かず、肩くらいになると自分で切って、その髪形を三十六まで維持していた。何か主義主張があって伸ばしていた訳ではないが、長くそう謂った髪形にしていたので切った時は妙な感じがした。
 清世が向かいに腰を降ろしたらしい。
 視覚以外の感覚が鋭敏になって、匂いや気配がよく判るようになった。彼女は気を使ってなるべくわたしの背後に廻らないようにしているのだが、だいたい判る。猫のことも誰が来たのか、何をやっているのか察しはつく。
 ギターも弾けるし、ふたりで出掛けた時に何気なく寄った楽器店で試し弾きしたら簡単に弾けてしまった為に、バイオリンも始めた。
 父親が遺したジャズの音源をよく聴くようになった。もともとジャンゴ・ラインハルトは好きでよく聴いていたが、やはりバイオリンと謂うことで、ジプシーの音楽などを選んでいる。
 中年に差し掛かったあたりから、若い頃のように騒がしい音楽はあまり聴かなくなった。昔から古い歌謡曲などが好きだったが、ハードロックも聴くには聴いていたのである。
 自分で作るものは実に暗い曲ばかりだったけれども、わたし自身はそんな性格をしてはいない。ひとからは楽天的で呑気な奴だと云われ続けてきた。極楽蜻蛉と云う者もあったし、猫仙人と揶揄する者も居た。
 まあ、どちらもあまり変わらないような気がする。要するに若干浮世離れしているように思われたのだろう。
 自分自身では地に足をつけて生きているつもりなのだが、他人の感想の方が客観的なだけに真実を突いているのかも知れない。
 爺いになったのだから極楽仙人で恰度いいのではないかと思える。周囲がそれで構わないと思ってくれるかどうかは判らないが、清世はそれでいいと思っているようだ。
 わたしが好きだった祖父に似てきているような気がする。変人としか思えないひとだったが、母に云わせると容貌も似ているらしい。
 飄々として、雑学に長け、酒と落語を愛したひとだった。あんな老人になりたいと思っていたのが現実になりつつある訳だ。もしかしたら既になっているのかも知れない。
 わたしが幼い頃の祖父の年齢とそう変わらない。
 子供の頃は自分が老人になるとは考えもしなかった。祖父は祖父と謂う生き物で、親は親、子供はいつまでも子供だと思っていた。
 それが或る時、不意に逆転して、自分は大人なのだと自覚するようになった。恐らく周りに年下の者が増えてきたからだろう。
 就職した辺りから、職場では年上の者が多かったが音楽関係では若年の人間が増えていった。住んで居たアパートの近くの子供たちにも懐かれ、よく遊んでいた。引っ越してからも暫くすると、やはり近所の子供やその友人が遊びにくるようになった。わたしが遊んでやっていると謂うより、わたしで遊んでいる。
 友人や知人に子供が生まれ、その子供たちがどんどん大きくなってゆくと共に、此方は年老いてゆく。同世代には、もう孫が居る者さえあった。
 隔世の感があるが、それも亦、愉しいと思える。若い頃は囚われるものが多過ぎて不自由だった。拘りがなくなり、自分で自分を縛っていたものが消えると、実に気楽な心持ちになる。もう働かなくていいし、さして責任もない。
 子供が出来なかったことは残念に思うが、今となってはそうした枷のようなものがなくてよかったのかも知れないと思える。
 失明したことはかなり大きな出来事であったが、なってしまえば如何することも出来ないのだから、自分としては成り行き任せである。やれることは、出来るだけ周囲に迷惑を掛けないようにするくらいだ。清世は皺だらけの顔を見られなくてよかったと云うが、その顔を見ていたかった。しかし、そんなことを思っても仕方がない。
 これから学ぶことはまだたくさんあるだろうが、忘れることも多い。忘却とは忘れ去ることではなく、辛くも悲しくもなく、それを楽しむことなのである。

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