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JTCを救いたい その3 ~私とパワハラ~


はじめに

※本記事は私の周りで数年前まで続いたパワハラ禍について記述していますが、最近はハラスメント対策が急激に充実してきたこともあり、パワハラは見なくなりました。

「パワハラ」という言葉が世に出たのは2001年のことだそうです。立場に起因する影響力を行使して他社に苦痛を与える行為がそれ以前にどのように呼称されていたのかは分かりませんが、JTCの古めかしいオフィスには被害者たちの怨嗟の声が雨染みのようにこびりついているかもしれません。私たちは過去を変えることはできません。JTCを救うためには、まずはパワハラが蔓延していた事実を認め、今後の在り方を考える必要があるでしょう。そこで、今回は私のパワハラ体験について記述します。この経験談が、パワハラに苦しむ方にとって、少しでも力になれば幸いです。
(身バレを防ぐため、一部フィクションを織り交ぜております)

私とパワハラ ~入社編~

 私は大学院の修士を卒業し、某JTCに入社しました。弊社は入社後の研修体制がかなり手厚く、半年近くの間、同期社員たちと共に研修を受けました。研修では、ロジカルシンキングやビジネスマナーなど、社会人としての基礎から社業に関連する実地研修まで幅広い内容に取り組みました。このように書くと勉学に励んだように思われるかもしれませんが、新入社員など所詮学生の延長です。修士論文から解き放たれ、何の抑止力もない春休みを満喫したツワモノどもです。遊びへのセンサは研ぎ澄まされ、あの手この手で面倒な研修を掻い潜ろうと目を光らせています。

春休みを超えてきた新入社員

更に、対応する社員から見れば配属すればどこに行くのかも分からない有象無象、厳しく教育する意味もありません。半ばお客様のような対応を受け、新人たちは伸び伸びと日々を過ごし、研修で学んだ知識は、ビールの泡と共に街の空気に弾けて消えていきました。そう、私たちは本当に楽しい時間を過ごしていたのです。楽しい同期と毎日定時後に遊びまわる、学生時代と違ってお金もある。社会人という立場はなんと素敵なんだろうか。このような浮ついた感想を抱いていたのは私だけでは無いはずです。この時の私は、会社の人々が皆自分の味方であり、当然親しくなれるものだと思っていました。まさか自分の最も身近な社員が言葉の通じない破壊神であるとは、微塵も考えていませんでした…。

私とパワハラ ~配属編~

 入社から約半年、私はとある研究部に配属されました。研究職志望であった私は、学生時代の専攻とは少し異なる職務をアサインされたことに若干の不安を感じつつも、猛烈にやる気を燃やしていました。これまでの経験を活かし、新たな分野の知識をバリバリと身に着け、会社を引っ張る活躍をしたい、そう思っていました。




 第一印象は、優しくて物腰の丁寧な良い人、でした。笑顔に噓臭さを感じたのは、気のせいだと信じることにしました。



 私が配属された部は、4つのグループに分割され、それぞれにグループ長がおり、直下に部下がぶら下がるという構造でした。私はグループ長の部下の部下である研究者として働くことになりました。つまり、上司が一人おり、その上司がグループ長ということです。グループ長には部下が3名おり、そのうちの一人が私の上司でした。先輩Aは私の配属より少し前に他部から移籍してきた方で、グループの業務に関してはあまり詳しくない様子でした。また、派遣社員の先輩が3名おり、データの分析やシミュレーションの一部を依頼するような環境でした。

配属先の人員構成

我々のグループでは、とある機器のシミュレーションや、それに関連する基礎実験を研究対象としており、各研究者がそれぞれテーマを進めるような形で、チームで取り組む業務はあまりありません。私は学生時代の研究内容が異分野ということもあり、まずは文献調査とレビューを2か月間ほどアサインされました。最初の頃は、論文を読む以外に先輩社員の業務説明を受ける、座学の講演会を受講するといったお勉強業務が中心であり、それなりに楽しく日々を過ごしていました。
 ある日、配属から1か月ほどが経った頃、論文の輪読会に出席するように指示を受けました。これは派遣社員の方への技術指導を兼ねた会であり、私と若い派遣社員(以下、派遣A)は事前に論文を読むよう指示されました。とは言え私は異分野を学習し始めて1か月、最新技術の論文を理解できるはずもなく、分からない部分はその場で聞こうと軽い気持ちで考えていました。しかし、輪読会が始まってすぐ、自分の見積もりが綿菓子のように甘っちょろかったことに気が付きました。その輪読会は、私のイメージするものとは全く以てかけ離れたものでした。緊迫した雰囲気の中、先輩Aが論文の内容を説明し、グループ長がその内容に関する質問を投げかけます。先輩Aは何とか応答しようとしますが、答えに窮したその時、


「お前は何を準備してきたんだ!」


突然の罵声に私の心の中で鳩が一斉に飛び立ちました(私は争いを好まないので、心の中に平和の象徴である鳩がいます)。「え?輪読って論文を皆で咀嚼して理解を深めるものじゃあないんですか?」という心の声を口から空気の振動として発する勇気は、私にはありませんでした。先輩Aはモゴモゴと何かを口走りますが、それは続く罵声にかき消され、数分間、心の処刑が続きました。先輩Aは真っ青な顔をしながら、終始うつむいていました。そして、先輩Aを滅多刺しにしたその矛先は、派遣Aに向きました。

「君はさっき何をメモしていたんだ、言ってみろ。」

私も派遣Aのメモを横目で見ていましたが、それはとても内容のあるものでは無く、聞こえた単語を並べただけのものでした。グループ長は恐らくメモに何の意味もないことに気付いた上で聞いていました。派遣Aは当然何も言えず、「分からない言葉があったので…」と小さく口走ると、下を向いて黙りこくってしまいました。それに対しグループ長は

「理解していないからメモもまともに取れないんだろう。そんな状態で輪読に来るな、迷惑だ。」

と吐き捨てました。そして私に向かって問いました。

「君はどうなんだ、この論文についてどう思う。」

私は全力で頭を回転させ、何とか自分の理解している部分としていない部分を説明し、論文の主旨をきちんと理解するにはこの部分の勉強が足りない、と回答しました。それに対しグループ長は、

「これから勉強すれば理解できるんだな、さっさと一人前になるように。」

と何の意味もない指示を出してきました。私は戸惑いながら、はい、と返事をしました。こうして、私にとってJTCの洗礼となった輪読会は終わりを告げました。

この輪読会において、私はグループ長に心底恐れを成すようになりました。特に恐ろしかったのが、派遣Aに対する発言です。派遣Aは業務経験が短く、正直なところ技術的な知識や理解力も乏しい方でした。そんな方がいきなり論文を読んで理解できるはずもなく、輪読会への参加など何の意味も無いことは分かり切っていました。それでもグループ長は派遣Aを輪読会に引っ張り出し、皆の前で吊るし上げたのです。私はこのことが全く理解できませんでした。自分の物差しではとても測れない、冷たく硬い異質な考えを前に、私は自分の行く末を深く憂いていました。派遣Aは、程なく会社を去りました。去った経緯は聞かされませんでしたが、ご本人の希望かと思います。私のグループに来た派遣社員のほとんどが1年も持たずに去っていたことを知るのは、もう少し後のことでした。

私とパワハラ ~業務編~

 しばらくの間、私は論文の調査を続けていました。その間は上司が面倒を見てくれたので、平穏に調査を進めることができました。そして調査報告が完了し、アサインされたテーマを上司と共に進めてしばらく経った頃、ついに赤紙が私の元に届きました。

「明日から朝礼に出るように。」

これが地獄の始まりであることは、当時の私にもはっきりと分かっていました。そして、この日から終わりのない茨の道を進むマラソンが始まりました。

毎日の朝礼を端的に表した名言

 端的に言うと、朝礼は罵倒の場でした。毎朝私と上司、先輩A、B及び派遣B、Cが会議室に集められ、それぞれが前日の進捗を説明します。説明には資料が求められ、それぞれが印刷した資料を持参することになります。そして、説明に対してグループ長が質問や意見をし、対応が不十分であれば罵倒される。このような場でした。さて、前記の通り、本グループは研究部隊です。研究には短期的テーマと中長期的テーマがあります。中長期的テーマでは、日々進捗が出るようなことは珍しく、袋小路に入って何も進まない日はザラにあります。そして、本グループが抱えるテーマは半分以上が中長期的テーマでした。つまり、短期的テーマがひと段落したようなタイミングでは、報告内容が枯渇するのです。例えばある日の朝礼では、資料が前日とほとんど同じであることに対し、

「お前は昨日何をしていたんだ!サボって給料を貰っていいはずが無いだろう!会社の足を引っ張るな!」

という非常に有難い罵声を頂きました。実際、前の日はグループ内で受け継がれてきた解析プログラムのバグを発見し、その修正に奔走していたのですが、それを説明すると

「その修正でどれだけ結果が変わるんだ!あまり変わらないなら放っておけ!何に時間を掛けるべきか考えろ!」

と来ました。技術的な誤りを放置しても良いという、研究者倫理に全力で喧嘩を売る姿勢が私には到底理解できなかったので、その場では下を向いて頷くことしかできませんでした。
 とにかく、毎日進捗を求められるということは、私にとって途方もないストレスでした。夕方になると翌日の朝礼に向けた資料を作り出すのですが、進捗が芳しくない日は焦ってすぐに結果の出る試行に手を出し、結果的に大きく遠回りしてしまうようなこともしばしば。どうしても成果が出なかった日には帰宅後も業務のことを考え続け、朝は泥沼の底から身体を引っ張り出すような気持ちでベットから起き上がっていました。このような日々を続けた結果、もみあげ周辺に白髪の束ができ、更に洗髪時には毛束がメンバーを脱退することもしばしば、頭部の美観を大幅に損ねる結果となりました。

 私もパワハラによりかなりのダメージを受け、心身共に疲れ切っていましたが、更に深刻だったのが先輩Aでした。先輩Aはある程度の年齢で私のグループに異動してきたこともあり、知識の習得にかなり苦労していました。一方で、役職者であることは覆せない事実であり、その立場に応じた成果を求められていました。ある時、それなりの規模のテーマを進めることになり、先輩Aがテーマの実働者となりました。このテーマでは、とある新物質について計測し、そのデータに基づいてシミュレーションを進め、新たな知見の獲得を目指すことになっていました。しかし、新物質の計測精度が悪かった為か、グループ長の予想とは異なる結果となりました。更に、先輩Aは計測方法に対する知見が無く、得られた結果に対しても十分な考察ができていない状況でした。これに対し、グループ長は激怒しました。

「何故俺の予想と違う結果なんだ!説明してみろ!できないなら、予想と合う結果が出るまで帰るんじゃねえ!!」

そう言ってグループ長は手元にある筆箱を先輩Aに投げつけました。先輩Aは真っ青な顔で目を見開いたまま、固まっていました。更にグループ長は言いました。

「お前らの仕事が給料に見合ってると思ってるのか!給料泥棒だ!そんな奴らが休日だとか定時だとか権利を全うできるわけないだろう!!」

「来週までに絶対なんとかしろ」と言い残し、グループ長は去っていきました。先輩Aは週末もこっそり仕事をして、何とかなったそうですが、この頃から先輩Aは飲酒量が増え、手が震えるようになりました。また、朝礼前にトイレで嘔吐しているのを見掛けたこともあります。

 グループ長は、「遅延」「ミス」「説明不足」だけでなく、「グループ長への異論」に対しても、非常に厳しい叱責をしてきました。ある時、私は自分の考えたシミュレーション理論を提案しました。それは、初学者の考えた稚拙なものではありましたが、今考えても間違ってはいない理論でした。一方、直観とは少し合わない部分がありました。これに対し、グループ長は「そんなわけがない、何かおかしい。そもそも誰もやっていないのであれば、できる訳がない。」と全否定の雨あられを下さりました。どこがおかしいかと聞いても的を射た返答はなく、ただ

「そんな適当な理論が通るわけあるか!時間の無駄だからやめろ!」

と、いつものように罵倒されました。必死で考えた理論を馬鹿にされた私は流石に頭に来て、その場では従う振りをしつつ、こっそり理論の実装を進めました。最終的には良い結果が得られ、国際誌に掲載されるなどグループの技術力向上にも貢献できたはずなのですが、グループ長はこの理論を一切認めず、社内の報告会などにも全く推薦して下さりませんでした。自分の意に沿わない技術は日の目を浴びる必要などない、という確固たる哲学に、私は怒りを通り越して諦めの境地に至りました。ちなみに、国際誌への投稿はグループ長の目の届かない所で進めました。知られれば当然止められたと思いますが、偶然別の管理職の方が手続きを融通して下さったのです。

私とパワハラ ~闘争編~

 さて、ここまで私と先輩Aの受けたパワハラについて記述してきましたが、最も長い間パワハラに苦しめられてきたのは、私の上司でした。上司は私の配属4年前からグループ長の部下であり、この間ずっと朝礼にも出席し、パワハラにも耐えてきたのです。先輩Bはグループ長より年長かつ非常勤であり、パワハラの対象では無かったので、パワハラ被害を受けてきたのは私と先輩A、上司、それに派遣社員の方々ということになります。特に派遣Bは上司と同じぐらいの期間、厳しく叩かれ続けたらしく、どこか悟ったような、あきらめたような目をした方でした。ちなみに上司は私の就活時に面接官をして下さった縁もあり、良好な関係を築いていました。上司は筋の通った方です。誤っていることは誤っていると言える人で、朝礼の際も度々グループ長に意見していました。しかし、グループ長の部下という立場もあり、パワハラを覆すほどのエネルギーはありませんでした。このような環境で今後働き続けることは難しいと考え、私と上司、先輩Aと派遣B、Cで作戦会議を開きました。その場で決まったことは下記です。

 1. まずは部長にパワハラの事実を伝え、対応を依頼する
 2. 変わらなければ、人事に直談判する
 3. それでも変わらなければ、役員に直談判する

当時はまだハラスメント相談窓口など無かった時代なので、これが限界でした。また、部長には上司が度々相談をしていたようですが、状況の変化が見られない為、グループ員連名で緊急性を訴えることになりました。

 ここで破壊神グループ長についてのご説明をしておきます。まず、意外かもしれませんが、グループ長は非常に頭の良い方でした。クリエイティブな成果はほとんどありませんでしたが、論理的思考力や仕事の速さは部内でもトップクラスでした。この頭脳を以て、部下たちを日々追い詰めていました。また、いわゆる「政治家タイプ」で、誰が実権を握っているか、誰が今後のキーマンか、といったことに関して非常に嗅覚が優れており、とにかく上からの評価が高い人物でした。研究者の在り方について非常に偏った考えを持っており、

「研究者たるもの、四六時中研究のことを考えているのは当然、ボーっと生きていてはいかん」

「研究者は選ばれた存在、激務に耐えて成果を出す義務がある、ワークライフバランスなど論外」

と何度も聞かされました。
このような社員は、上からはどう見えるでしょうか?非常に都合の良い社員ではありませんか?放っておくとグループ員を猛烈に働かせ、成果をまとめてくれる。更に言うと、恐らく上から見たグループ長は「熱心に部下を教育する素晴らしい上長」に見えていたのではないかと思います。
 つまり、よほどのデメリットを提示しないと、こんな便利な駒を除いてくれるはずは無かったのです。そこで、グループ員での対策とは別に、私個人で2点の対策を打つことにしました。

 1. 部内の若手間で事実を広める
 2. 何を言っても怒られるので、気にせず自分のやりたいことを進める

1については、とにかく一人でも仲間を増やしたいという意図の元での行動です。グループ長は人当たりが良く、グループ外の方からは優秀なグループ長と認識されていました。特にベテラン層ではその評価が固まっており、グループ員が何を言っても単なる愚痴にしか聞こえない恐れがありました。このような状況下で部長に訴えを出したとしても、周囲の雑音に呑まれてかき消されてしまうと考え、まずは若手間で事実を周知させることにしました。「~~が・・・と言っていた」という情報は、自分で直接情報を伝えるより真実と認識され易いと聞いたことがあり、若手の皆さんにスピーカーとして活躍してもらおうと考えました(単に話を聞いて欲しかった部分も多分にありますが)。
2については、自分が研究者として成長する為に必要と考え、全力で実行しました。とはいえ、やはり指示通りに動かないことによる叱責は凄まじく、一時は真剣に仕事を辞めて地元に帰ろうと考えていました。しかし、自分で選んだ研究者という道を諦めたくない一心で、歯を食いしばって歩き続けました。

私とパワハラ ~離別編~

 部長への相談からしばらくが経ち、そろそろ人事への直談判を考え始めた頃、事件が起きました。
 その日は何でもない月曜日でした。私はいつものように朝礼の準備をし、今すぐに直下型地震が起きて会社を粉砕してくれないか、と考えながら会議室に向かいました。しかし、朝礼の時間を過ぎても派遣Bが一向に姿を見せませんでした。確かにその日は朝から席に何も置いておらず、PCの電源も入っていなかったように思います。社用携帯に電話をしましたが、何度掛けても繋がらず、不穏な空気が流れ始めました。緊急連絡先として登録されている番号にも電話は繋がらず、一旦朝礼はお開きとなり、グループ長は派遣元やご家族に連絡を取っていました。



派遣Bは、二度と私たちの前に姿を現しませんでした。



私には何があったのかは知らされませんでした。ただ一つ言えるのは、派遣Bがもう私たちと仕事をすることが無い、と話したグループ長の表情が悲痛だったということです。



この日以降、グループ長の態度は明らかに軟化しました。朝礼は相変わらず続き、時には罵声を浴びせられることもありましたが、何か芯を食わないように感じました。もはやこれまでと同じような自治はできない、とグループ長本人が思いながらも、今更仕事の仕方が変えられない、このような状況で苦しんでいるようにさえ見えました。

私とパワハラ ~完結編~

 パワハラの温床であった朝礼は、コロナ禍であっけなく消失しました。2020年3月、日本にコロナウイルスが上陸した際、私の部は出勤禁止措置を取りました。部員全員が突然テレワークを強要され、Web会議の体制も整っていなかったので、朝礼は必然的に開催されることが無くなり、グループ長への報告は週1のグループ内ミーティングの場のみとなりました。

 更に数か月後、強制テレワークが解除された頃、グループ長は関連会社に出向となりました。パワハラ告発が効いたのか、派遣Bの一件により自ら身を引いたのか、真実は分かりませんが、私たちグループ員はパワハラから解放され、新しい温和なグループ長の元で伸び伸びと研究活動に取り組むようになりました。

さて、この一連の出来事について、「被害者」は一体誰なのでしょうか。私?先輩A?派遣B?もちろんグループ員は先輩Bを除いてパワハラを受けていたので、被害者と言えるでしょう。しかし、私はパワハラの当事者であるグループ長もまた、被害者だと感じています。

 私がグループ長の発言からひしひしと感じていたことがあります。それは、自分が正義であると信じ切っていたということです。

グループ長を表す名言

ウェザー・リポートの言葉を借りると、グループ長は「もっともドス黒い悪」ということになります。では、グループ長から見た私たちはどうでしょうか?当然のように労働者の権利を主張し、成果は二の次としている怠惰な愚か者たち、そう見えていてもおかしくはありません。…いえ、私は決してグループ長を擁護するつもりはありません。ただ、グループ長にはグループ長なりの正義があったことは確かです。その正義に基づいて、私たちを教育、つまり彼なりの「良い方向」へ導こうとしていたのです。その結果が、派遣Bの失踪です。グループ長は大変なダメージを受けたのではないでしょうか。良かれと思い差し伸べた手で人の可能性を握り潰してしまった。更に、残ったメンバーも誰一人としてグループ長の正義を正義とは思っていない。このような状況では、グループ長が去っていったのは必然と言えるかもしれません。

終わりに

 以上が私のパワハラ経験記です。これらを通して、私は下記の教訓を得ました。

  • パワハラと戦うには膨大なエネルギーが必要

  • 真っ向から立ち向かうのは、どちらかと言えば悪手

  • 仲間を作ることが最も重要

  • 自分の正義を常に疑うべし

 パワハラと立ち向かうにあたり、最も効果的だったのが若手社員へのロビー活動です。後になって分かったことですが、部長は他グループのベテラン社員と話をしており、その際に私の流布した事実が耳に届いていたようです。人の不幸は蜜の味です。自分の不幸話は、図らずして人から人へ伝搬していくものです。これがうまく作用したように思います。
 逆に、自分のやりたいことをひたすら進めたのは、自己成長においては必要経費だったかもしれませんが、悪手に思います。これにより、私はかなりの精神的苦痛を受け、抱えなくても良いはずのストレスをひたすら貯め込みました。居心地が悪いのであれば、環境を変えるべきです。パワハラの元凶の排除を最優先すべきですし、それが難しければ、自分の立ち位置を変えるべきです。精神は可塑性です、一度凹んでしまえば元には戻りません。

 最後に、自分の正義を疑うというのは、自分が加害者にならない為の教訓です。今回のエピソードでは、パワハラを通して幸せになった人は一人もいません。本来、仕事は自身や周りの人を幸せにする為にあります。私はこれから、仕事を通じてたくさんの人を幸せにしたいと思います。その対象は、顧客だけではなく、先輩や後輩、家族や友人もです。皆が前向きに仕事に取り組める環境を作ることが、その一歩かと考えています。その為に、たくさんの正義を受け入れる度量を持ってこれからも成長していきたいと、強く思います。

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